えむえむっ!5 松野秋鳴 第一話 サディスティック嵐子《あらしこ》嬢 「こ、このクソ犬野郎っ!」  そんな声が、俺——砂戸太郎《さどたろう》の背中に突撃してきた。  うっ、と小さく呻き、俺は立ち止まる。  こんなことを言ってくるのは……もはや言うまでもない。あのお人しかいない。  先天的ドMである俺は、ちょびっと気持ちよくなりながら振り返り、 「……石動《いするぎ》先輩、朝っぱらからいきなり罵倒しないで——」  そこで、俺の声が止まる。 「……え?」  俺は両目を大きく見開き、そこに立っている女子の姿を見つめた。  両足を肩幅に広げ、両手を腰に当て、眉を逆立てながら俺を睨みつけているのは、 「ゆ……結野《ゆうの》?」  基本的に加虐人間、石動|美緒《みお》先輩——ではなく。  指通りの良さそうなショートカットの髪に、赤ちゃんのようななめらかな肌、ぱっちりとした大きな瞳が印象的。男性恐怖症で、男性の体に触れると反射的にその人を殴ってしまうという習性がある少女。  クラスメイトである、結野嵐子だった。 「へ? あ、あれ?」  十月の終わり。秋の背中が遠ざかり、季節は冬へ移行しようとしている。寒さに弱い俺は体を丸め、とぼとぼと桜守《さくらもり》駅から俺の通う桜守高校までの途中にある舗装路を歩いていた。そのとき、いきなり背後から罵倒され、振り返ったのである。 「えっと……」  俺はきょろきょろと辺りを見回す。俺を罵倒したはずの石動先輩の姿を探して。が、先輩はいない。それどころか俺と結野以外に人の姿はない。  じゃあ、さっきの罵倒は……  困惑しながら結野を見つめる。 「結野……あ、あの、いまクソ犬野郎って言ったのは、もしかして……」 「頭《ず》が高い」 「へ?」 「頭が高いって言ってんのよっ!」  結野は鋭い視線を俺に向け、大きく声を張り上げる。 「あ、あんたみたいな駄犬がなんでわたしを見下ろしてるのよ! 犬は犬らしくさっさと四つん這いになりなさいっ!」 「よ、四つん這いって……」 「早く! さっさとしなさいっ!」  な、なにを言ってるんだよ、結野。  なんで俺が四つん這いに……  ぷるぷると体が震える。それはもちろん怒りのためではなく、美少女に四つん這いになれと命令されているこの状況に俺の変態マインドと変態ボディが反応しちゃっているためだった。 「このド変態のブタ犬が! グズグズするんじゃないわよっ!」 「ブ、ブタ犬ってどんな動物ですかぁ……はあ、はあ、はあ……」  それ以上抗うことはできなかった。  俺は冷たい地面に両手を置き、ゆっくりとその場で四つん這いになった。わりとイイ笑顔を浮かべながら。  結野は両腕を組み、細い顎を微かに反らしながら、とても醜悪な生き物を見るような目で俺を見つめている。 「ゆ、結野……な、なんでこんなことを……」  全身を襲う快楽に息を荒らげながら、なんとか尋ねる。 「犬のくせに、このわたしを呼び捨てにするんじゃないわよ!」  結野は右手を胸に添えるような格好で、 「わ、わたしのことは……嵐子さまって呼びなさい!」  と、大声で告げた。 「…………」  俺はあんぐりと結野を見上げる。あ、嵐子さま? 「な、なによその顔はっ! バカ!」 「す、すみませんっ!」 「アホ犬が! 早く嵐子さまと呼びなさいよっ!」  結野はなんだかヤケクソのような感じで叫ぶ。  そんなふうに命令されたら……ドMの俺はもう逆らうことができないのです。  俺は地面に両手をついたまま結野の顔を見つめ、言った。 「あ、あらしこ……嵐子さま……」  すると——  結野はボッと顔を真っ赤にし、ごにょごにょとつぶやく。 「は、はじめて……下の名前で呼ばれちゃった……」  だが一瞬後、ハッと我に返ったような顔でぶんぶん頭を左右に振ると、 「って、そうじゃないでしょ!」 「な、なにがそうじゃないんですか……?」 「うるさいっ! この家畜が!」 「か、家畜……はあ、はあ、はあ……」 「とにかく!」  結野は、ニヤニヤ気持ち悪い笑みを浮かべる俺にびしっと人差し指を突きつけ、 「あんたみたいなドブ臭いブタ犬にはもううんざりなのよっ! だから今日からわたしはあんたを徹底的にいじめちゃうわ! それはそれはサディスティックにいじめちゃうんだから! か、覚悟しなさいよね!」  そんなセリフを吐き捨てると、結野はぷいっと俺から顔を逸らし、スタスタ早足で学校のほうに歩いていった。  一人残された俺は、 「…………」  なにも考えることができず、呆然とその背中を見送った。 「……ううむ」  俺はうめきながら、結野の席のほうに顔を向けた。  お手洗いにでも行っているのか、結野は自分の席にはいなかった。 「太郎? どうしたんだ?」  髪を金色に染めた小柄な男子が、怪訝そうに俺の顔を覗き込んでくる。  こいつは俺の親友の葉山辰吉《はやまたつきち》だった。不良みたいな外見をしているが、中身は超がつくほどの優等生だ。あと、女装趣味という変態的な趣味を持っている奴でもある。 「ああ……」  俺は難しい顔のままつぶやき、組んでいた両腕をほどく。  四時間目の授業が終わったばかりの、昼休みの教室。クラスメイトたちは授業で使った教材をしまい、昼ごはんの準備をはじめている。  俺の前の席に座っている辰吉は、自分の弁当箱を俺の机の上に置きながら、 「おまえ、今日は朝からずっとそんな顔してるぞ? なんか悩みごとでもあんのか?」 「ちょっと、な……」  俺が難しい顔をしている原因。  それは、もちろん結野である。  今朝、俺に向かって罵詈雑言を発したあと、四つん這いになれと命令してきた結野。どうして結野はそんなことをしたのか。その理由がまったくわからなかった。  いったい、結野はどうしてしまったのだろうか。 「悩みがあるんなら聞くぞ?」  と、辰吉が言ってくる。 「じつは……」  俺は少し迷ったが、今朝のことを辰吉に話すことにした。このまま一人で考え込んでもラチがあかないと思ったからである。  話を聞いた辰吉は、両目を見開きながら、 「……結野がおまえにそんなことを? 石動先輩じゃなくて?」 「ああ。相手が先輩だったらこんなに悩まない」  先輩からの罵倒や命令は日常茶飯事だからだ。 「信じられねえなぁ……」 「俺もだよ」  言って、ため息をつく。 「もし、それが幻覚とかじゃなくて本当の話だったら……なんで結野はそんなことをしたんだ?」 「それがわからないから困ってるんだ」 「おまえ、なにか結野を怒らせるようなことでもしたんじゃねえのか?」 「そんなことはないと思うけど……」  結野を怒らせるようなことをした覚えはない。まあ、俺がそう思っているだけかもしれないけど…… 「でも、いくら怒ったからって、あの結野が『四つん這いになれ』なんて言うと思うか?」 「いや、思わない。まったく想像できない」  きっぱりと辰吉は告げる。 「だよなぁ……」  結野は基本的には穏やかな人間だ。あくまで基本的にはだが。  そんな結野が、いくら怒ったからといっても人に四つん這いになれなんて命令するだろうか。辰吉の言うとおり、まったく想像ができない。でも、それは現実に起きたことなのである。  と—— 「タロー」  急に名前を呼ばれ、俺は少し驚きながらそちらに顔を向ける。  いつの間にか、俺たちのそばに結野が立っていた。 「あ……ゆ、結野……」  今朝のことがあるのでちょっとオロオロしてしまう。 「な、なんか俺に用か?」  尋ねると、結野は俺から目を逸らした。どうしたのだろう、結野はなんだか緊張しているように見える。あと、少し周りを気にしているような気配があった。  俺たちのそばに座っていた女子が、弁当箱を持って遠くの席に移動した。それを見た結野はホッと安堵の息をつく。  いま、この近くには俺たち三人以外は誰もいなかった。結野はそのことを確認するように小さくうなずいたあと、 「わ、わたしね……」  俺の顔色をうかがうような瞳で、 「……お弁当、作ってきたの」  と、言った。 「え?」  俺はぽかんと口を開ける。弁当? 「あ、あんたって、いつもパンばっかりでしょ? それじゃあ栄養が偏ると思って、わたしがお弁当を作ってきてあげたのよ」 「俺に……弁当を? 結野が?」 「うん」  こくりとうなずく結野。  結野は両手を背中に回しながら——後ろに弁当を隠しているのだろうか——恥ずかしそうに俺を見つめている。  そして、 「食べて、くれる?」  ちょっぴり頬を赤らめながら、そう言った。  ドキンと鼓動が高鳴る。  俺はぎこちない動作でうなずきながら、 「あ、ああ……せっかく作ってきてくれたんだし、ありがたくいただくよ」  隣では、辰吉がにやにやしている。俺はそんな辰吉に苦笑のような笑みを向けた。結野が俺に怒っているなんて話は、どうやらただの勘違いだったようだ——そう思い、俺はかなり安心した。  結野は、 「じゃあ——お弁当をあげるわっ!」  叫ぶように言ったあと、座っている俺の股間辺りに『なにか』を叩きつけた。 「ぬおおおうっ!?」  俺の股間辺りに叩きつけられたもの。  それは、びちょびちょに濡れた雑巾だった。 「あ……うう……」  冷たい。濡れた雑巾が冷たい。それに、この雑巾、ちょっと臭い気がする。  俺は困惑しながら結野を見上げ、 「あ、あの……結野さん、これはどういうこと……とゆーか弁当は……」 「察しの悪いブタ犬ねっ!」  結野は鋭い声を上げる。俺の体がびくりと震えた。 「その雑巾があんたの弁当よっ! さあ、お食べなさい!」 「ゆ、結野、いったいなにを言って……雑巾なんて食べられるわけ……」 「あんたが食べるのは雑巾じゃないわ! その雑巾に染みこんでいる牛乳よ! 雑巾を口にくわえて牛乳をチューチュー吸いなさい!」  なるほど、この異臭の原因は雑巾に染みこんでいる牛乳だったのか。 「す、吸いなさいって……」 「このわたしが、あんたみたいなもんのためにわざわざ作ってやった弁当なのよ! ちゃんと残さず吸いなさいよね!」 「の、残さず吸うんですか……はあ、はあ、はあ……」 「そうよ! さっさと吸いなさい! ハリーアップ!」 「はあ、はあ、はあ、はあ……」  俺はぷるぷる震えながら、両手で雑巾を掴む。  そして異臭を放つ雑巾を口元に…… 「ぬおおおおっ!? た、太郎、なにやってんだよっ!?」 「あ、嵐子さまの作ってくださった弁当を、チューチュー吸わなければ……吸わなければ……はあ、はあ、はあ……」 「バカか! そんなことしたら確実に腹を壊すだろうが!」 「だいじょうぶ……だいじょうぶだから……」 「大丈夫じゃねえ! いまのおまえはいろんな意味で大丈夫じゃねえよ!」  雑巾を吸おうとする俺を、辰吉が必死に止める。  じゃ、邪魔しないでくれよ、辰吉。俺はこのかぐわしい香りのする究極の甘露を飲み干さなければならないんだ……はあ、はあ、はあ…… 「は、葉山くんの言うとおりよっ! そんなもの飲むのはやめて!」  そう言ったのは——  俺にそれを勧めた張本人である、結野だった。  俺はドMの興奮すら一瞬忘れ、あんぐり口を開けながら結野を見上げる。辰吉も俺と同じような顔をしていた。  俺たちに見つめられた結野は、ハッと我に返ると、 「や、やっぱり、わたしには……」  うろたえたような顔でつぶやき、脱兎のごとくこの場から走り去ってしまった。  しばしのあいだ、無言で顔を見合わせる俺と辰吉。 「えーっと……」  辰吉は頬に汗を垂らしながら、 「結野の奴……本当にどうしちまったんだ?」  それは、俺のほうが聞きたいです。  そのとき—— 「うおっ!?」  急に腕が引っ張られ、俺は強引に立ち上がらされた。  そのまま、すごい力で運ばれていく。教室を出る。 「ちょ、ちょっと……」  俺は、自分の腕を引っ張る人物に向かって言う。 「間宮《まみや》さん! い、いったいなんだよっ!?」  俺を教室の外に連れ出したのは、結野の親友であり辰吉に片思いをしているクラスメイト、間宮|由美《ゆみ》さんだった。  間宮さんは険しい顔で俺を連行する。教室を出てもまだ歩みを止めない。  彼女が向かったのは—— 「え、ええっ!?」  なんと、女子トイレだった。 「ま、間宮さん!? なんで女子トイレなんかに——」 「少し黙りなさい」  言って、間宮さんは俺の上半身を素早くマッサージした。その瞬間、俺の全身から力が抜ける。 「あ、あふぅ……」  間宮さんは、間宮流マッサージ術とかいう謎のマッサージ術の使い手なのである。そのマッサージを喰らってしまうと、体が気持ちよくなりすぎてしまって身動きがとれなくなっちゃうのだった。  腑抜けになった俺を、間宮さんは女子トイレの個室に連れ込む。  洋式便器に俺を座らせ、じっと見下ろす。  俺は突然の展開にかなり混乱しながら、 「ま、間宮さん……なんで……」 「さっきの嵐子とのやりとり、ずっと見てたわよ」  間宮さんは冷たい口調で言った。 「え……?」 「優しい嵐子が、あんなことをするなんて……」  間宮さんは片手を腰に当て、ゾクゾクするほど鋭利な瞳で俺を睨みつける。 「あなた……嵐子にいったいなにをしたの?」 「な、なにをって……」 「あなたが嵐子になにか酷いことをした。怒った嵐子はああいう形であなたに怒りをぶつけた。嵐子があんなことする理由なんてほかに思いつかないわ。つまり……嵐子があんな態度を取らざるを得ないほど酷いことを、あなたは嵐子にしたというわけよね……?」  憤怒のオーラが間宮さんの全身を包む。  俺の膝がガクガク震えた。 「お、俺はなにも……」  そのとき、急に——間宮さんが俺に体を寄せてきた。  そして、右手で俺の口を塞ぐ。 「ふ……ふがっ!?」 「静かにしなさい。誰か、入ってきたわ」  間宮さんは俺の耳に触れるほど唇を近づけ、囁きかけてくる。  確かに、誰かが女子トイレに入ってきたようだった。たぶん女子が二人。鏡でも使っているのか、洗面台の場所あたりで立ち止まり、 「そういえばさ、今年のミスコンはすごかったねー」 「うん……すごい、一万円札の乱舞だった……」  と、なにやら雑談をしている。  俺たちは体を密着させたまま、息を潜める。間宮さんの右手は俺の口に当てられたままだった。  間宮さんの、胸を含めたやわらかい体が、俺の右半身にぴったりとくっついている。それに、間宮さんの体からは女の子特有の甘い匂いがして……俺はこんな状況にもかかわらず、かなりドキドキしてしまっていた。心臓の音が間宮さんに聞こえやしないかと心配になったくらいだ。  すぐ隣にある間宮さんの整った顔。俺は目線だけを動かし、そちらを見る。  きゅっと唇を引き結ぶ間宮さんは、なんだか少し顔を赤くしていた。 「…………」 「…………」  やがて、 「……ふう。やっと出ていってくれたようね」  つぶやき、間宮さんは俺から離れる。  女子たちはもう外に出て行ったようだ。俺はもうドキドキを抑えるのに精一杯で、外の様子を探る余裕などまったくなかった。  俺はふうと息を吐き出し、間宮さんを見上げる。  間宮さんはうろたえたように、 「な、なによ?」 「いや、べつに……」 「ふんっ」  ぷいっとそっぽを向く。まだ顔が少し赤かった。 「……話を戻すわよ」  間宮さんは目つきをさらに鋭くする。  話を戻す。つまり、結野の様子がおかしいことについての話をしようということだ。 「——正直に言いなさい。あなた、嵐子になにをしたの?」  と、間宮さんは告げる。 「なにをしたかによって、あなたへの刑罰を決めるわ。さあ、言いなさい」 「な、なにもしてない! 俺だってわけがわからねえんだ! なんで結野があんなことをしたのか、まったくもって——」 「話すつもりはないというわけね。ああ、そう」  間宮さんは低い声で言うと、両手の指をゴキゴキと鳴らした。 「じゃあ……これからマッサージで尋問するわ」  間宮さんは俺に近づき、両肩に手を置く。 「間宮流には、尋問に特化したマッサージもあるのよ。それをあなたに施してあげる」 「尋問に特化したマッサージ!? なぜマッサージが尋問に特化を!?」 「間宮流マッサージ尋問術——問裸舞流《とらぶりゅう》——っ!」 「ふ、ふひぃ——っ!」  間宮さんの細くて長い指が、まるで鍵盤を叩くかのように俺の全身を弾いた。残像も残さないほどの素早い動きで。 「あ、あああ……」  間宮さんのマッサージは相変わらず、尋常じゃないほどに気持ちいい……気持ちよすぎて、頭が真っ白になる……  俺は間宮さんのマッサージを受けながら、ふるふると震えていた。呼吸が乱れ、なんだか涙まで出そうになる。 「う、うわあ……くぅ……」 「さあ、言いなさい。嵐子になにをしたの?」 「はぁ……な、なにも、してないんですぅ。本当なんですぅ」 「粘るわね。でも、いまのマッサージはまだ第一章……問裸舞流には第十三章まであるのよ。最後まで正気を保ったまま耐えられるかしら? なんでもないようなマッサージが幸せだったことを思い知りなさい」 「いやあああっ! じょーじいいいっ!」  マッサージによる尋問は十分ほど続き—— 「……ふむ」  間宮さんは小さくつぶやくと、俺の体から両手を放した。一歩俺から離れ、 「どうやら、本当に心当たりがないようね」 「だ、だから、最初からそう言って……はあ、はあ、はあ……」  俺は便器に腰を下ろしたまま、肩で息をする。  ほんと、間宮さんのマッサージは頭がおかしくなるほどの悦楽を与えてくれる。中毒にならないようにしないと。  間宮さんはそんな俺を鋭く見つめ、 「でも、まだ疑いが晴れたわけではないわ」  と、言った。 「心当たりがないからといって、あなたが嵐子を傷つけたわけではないという証明にはならない。ただ、あなたにその自覚がないだけで。……その場合、むしろ罪は重くなるわよ」  確かに……その可能性はある。  俺の行動によって結野はとても腹を立てた。だから結野は俺に仕返しのようなことをすることにした。  俺は、結野がそこまで怒るほどのことをしたのに、それを思い出すこともできないでいる。そうなのかもしれない。 「あなたの鈍感さは、もはや変態的だしね」  間宮さんがため息混じりに告げる。そうなのだろうか。自分ではわからないが、それも俺が鈍感だからなのかもしれない。 「とりあえず……嵐子に事情を聞いてみることにするわ。どうして砂戸くんにあんなことをしたのか、その理由を」 「そ、そうしてください」  できれば俺にマッサージで尋問をする前に、そうして欲しかったです。 「でも……あんなことするなんて、本当に嵐子らしくないわよね。いったいどうしちゃったのかしら」  つぶやきながら、間宮さんは個室の扉を開け、外に出て行った。  俺はまだ全身に力が入らず、立ち上がることもできない。  とゆーか…… 「女子トイレに置き去りですかっ!?」  やばい。こんなところにいることが誰かに知られたら、俺はすべての女子から犯罪者扱いされてしまう。 「と、とにかく、外に出ないと……」  ふらつく体をなんとか動かし、個室のドアに耳を当てる。  物音がしないことを確認し、 「よし、外には誰もいないみたいだ」  この隙に女子トイレから出よう。俺はビクビクしながらちょっとだけドアを開け、その隙間から本当に誰もいないかどうかを確かめる。誰もいない。  ドアの隙間から体を滑らせ、個室の外に出る。  間宮さんのマッサージの影響で体がふらつき、息も整っていない。でも、そんなこと言ってられなかった。  俺はできるだけ迅速に、女子トイレから出ようとした。  出ようとしたのだが——  そのとき、ちょうどトイレに入ってきたある女子と、鉢合わせしてしまった。  メガネをかけ、長い髪を三つ編みにした女子。整ってはいるが、見る者にどこか冷たい印象を与える顔立ちをしている。  俺たちのクラスの委員長である、綾瀬川霧乃《あやせがわきりの》さんだった。  彼女はMFC——美緒さまファンクラブという組織の創始者で会長だった人物。もうMFCは解散してしまったのだが、委員長が石動先輩を慕う気持ちはいまでも変わっていないらしい。あと、先輩と同じ部活に所属している俺をちょっと嫌っている感じだった。  最悪の人物と鉢合わせしてしまった……俺は内心そう思った。 「…………」 「…………」  洗面器の前で、俺と委員長は無言で見つめ合う。委員長の全身を覆う気配が次第に鋭くなっていく——ような気がした。  委員長はメガネの奥の瞳を微かに細め、 「……砂戸くん」  と、いつもよりさらに怜悧な声で言う。 「は、はい」 「私の記憶が確かならば、ここは女子トイレだったはずですが……どうして、男子であるあなたがここにいるんですか?」  もっともな質問だった。 「い、いや、えっと……じつは……」  からからになった喉をなんとか動かし、声を発する。 「じ、じつは、うっかり男子トイレと間違っちゃって……ははは……」  ごまかそうとする俺を、委員長は観察するような目で見つめる。 「男子トイレと間違えた……そうですか。でも、だったらなぜ、砂戸くんはそんなに顔を上気させ、息を荒らげているのですか? なんだか興奮しているように見えますが」 「え……? はあ、はあ、はあ……」  そう、いまの俺は間宮さんのマッサージのせいで、呼吸が荒くなっているのだった。 「こ、これは、その……」  露骨にうろたえた俺を、委員長はじーっと凝視する。  いかん! 委員長はなんか誤解をしようとしている! 「ち、違うんだよ、これは違うんだ……」  そのとき、ふと委員長の視線が俺の目から外れた。視線が下に向かう。  どうしたのだろう。視線を下げた委員長は、さらに表情を険しくしたように見える。  俺は委員長の視線を追った。  彼女の目の焦点が合っているのは、俺の股間辺りで…… 「あ、ああっ!?」  思わず声を上げてしまう。  俺の股間辺りは——びっしょりと濡れてしまっていた。  結野にびしょ濡れの雑巾をぶつけられたせいだ。拭くこともせず放っておいたので、まったく乾いていない。  委員長はこめかみを引きつらせ、しばらく黙り込んだあと、 「なるほど……」  嫌悪感を隠そうともせず、告げる。 「女子トイレの便器の底に溜まった水を、自分の股間にぶっかけるというプレイですか」 「な、なんだよそのプレイは!? そんなことするわけねえだろ! つーか、そんなプレイを瞬時に思いつく委員長のイマジネーションにびっくりだよっ!」 「砂戸くん、私は激しく軽蔑します。やはり、あなたは美緒さまのパートナーにはふさわしくないかもしれない……」 「だから違うって……はあ、はあ、はあ……」  ああああ、委員長の軽蔑の視線に、俺のドM体質が反応してさらに息が荒く……はあ、はあ、はあ……  こ、これはやばい! この状況で息を荒くするのは本当にやばい! 「…………」  委員長は、静かに俺を見つめたあと、制服のポケットに手を入れた。  取り出したのは携帯電話。委員長は短く、 「では、通報します」 「つ、通報!?」 「はい」  当たり前のように、委員長はうなずく。  そ、そんな…… 「い、委員長! ちょっと——」 「待ちません。砂戸くんはいま完全に犯罪を犯しました。法の裁きを受けるべきです」  委員長は淡々と言い、携帯電話に三つの数字を打ち込もうと—— 「オーホッホッホッホッ!」  突然、高笑いが響いた。  委員長は訝しげな顔をしながら、背後を振り向く。高笑いが聞こえてきたほうへと。  そこにいたのは、艶やかな黒髪を長く伸ばした美少女——ではなく。  女装をした辰吉だった。 「た、たつ……」  女装辰吉は桜守高校のジャージを着ていた。ジャージのデザインは男子も女子も変わらないので、違和感はない。  委員長は辰吉を睨むように見つめる。 「……なんですか、あなたは?」  辰吉は口元に右手を当てながら、 「オーホッホッホッホッ! わたくしは——絢爛豪華、荘厳美麗、華麗奔放なる宇宙的貴族美少女、タツミ・アントワネット十六世ですわっ!」 「アントワネット……どう見ても東洋人にしか見えませんが……」 「わたくしの従者が粗相をしてしまったようですわねっ! ですがそれは、主人であるこのわたくしへの深い忠誠心のせい! そこの小汚い従者は、わたくしがトイレに入る前に、わたくしが使用する便器を自らの体温であたためておこうとしたのですわよ!」 「体温で便器を……」 「べつに性的な欲求を満たす的なアレコレで女子トイレに侵入したわけではございませんのよっ! ですので今回だけは見逃すということにしたほうがいろいろと無難なような気がするのではなくて貴族的にとゆーわけでこれでわたくしたちは失敬いたしますわごきげんよう一般市民また会う日までオーホッホッホッホッ!」  女装辰吉は早口で言いながら素早く俺に近づき、がしっと俺の腕を掴んだ。そしてすごい勢いで女子トイレを出て委員長のもとから逃げ去る。まだなにか言おうとしていた委員長を無視して。  渡り廊下の前あたりまで逃げて—— 「……ふう。たすかった」 「まったく……あなたはなにをしていますの?」  やれやれ、と女装辰吉はかぶりを振る。 「いつまで経っても教室に帰ってこないので様子を見にきてみれば……本当、世話のかかる劣等人種ですわね」 「わ、わりい。でも、おまえ、なんで女装してるんだよ?」 「あなたたちが女子トイレの中にいたからですわ。まったく、このわたくしの手を煩わせるなんて、世が世なら銃殺刑——」  そのとき。 「あ……ま、まさか、お姉さまっ!?」  渡り廊下を歩いてきた女子生徒が、女装している辰吉を見て声を上げた。  とても胸の大きな女子だった。女子はふるふる体を震わせながら、 「選択授業の教室から第一校舎に戻ってきたら、なぜかお姉さまの姿が……こ、これは夢なの? それともプライスレスなの?」 「ぐへぇ!? あ、あなたは花片《はなひら》……」 「お姉さまぁ!」 「わ、わたくし、これから仮面舞踏会に出席しなければっ! とゆーわけで、さらばですわっ!」 「ま、待ってよぉ! お姉さまぁあぁ!」  逃げる女装辰吉を、胸の大きな女子が追いかけていく。どこかで見たことあるような光景だった。 「えーっと……」  よくわからない展開に困りながら、俺はぽりぽりと頬を掻いた。  放課後。  俺はいつものように、第二ボランティア部の部室に向かった。  部室に向かいながら、俺はある仮説を立てていた。  結野が、異常な行動を起こした理由。  もしかすると、それは……  部室の前に辿りつく。俺はその扉を開けた。  部室は十畳くらいの広さだった。中には机や椅子がいくつか置いてあり、壁際にはロッカーがある。奥にはもう一つ、六畳ほどの畳敷きの部屋があった。  そして—— 「遅いわよ、ブタロウ!」  扉を開けるなり、小柄な少女が大声で言った。腰に両手を当て、むーっと不機嫌そうな顔で俺を睨みつけている。  亜麻色の長い髪に、透き通るような白い肌。宝石のような、いやそれ以上の煌めきで見る者を絶句させる美しい二重の瞳。完全無欠の超絶的美少女。  彼女は、この第二ボランティア部の部長である、石動美緒先輩だった。 「一人でヒマだったじゃない! このあたしをヒマにさせるなんて、何様のつもり!? このブタ様が!」 「す、すみません……」  反射的にあやまる。かなり理不尽なことをおっしゃっているが、逆らったりはしない。そんなことをしても無駄だし、火に油を注ぐだけだからだ。  俺がおどおどしながら先輩を見下ろしていると、先輩はなぜかハッとした顔になった。それから、激怒に顔を赤くし、 「……べ、べつに、あんたが部室に来るのを待ってたとか、そんなんじゃないわよっ!? このブタが、思い上がってんじゃねえ!」  と、意味不明なキレ方をした。 「は、はあ……すみません……」  俺は困惑しながらもう一度あやまる。が、いまの「は、はあ……」は困惑からどもったわけではなく、罵倒が気持ちよかったから一瞬息を荒らげちゃっただけであった。  石動先輩は両腕を組み、「ふんっ!」と勢いよく俺から顔を背ける。  俺は首をかしげる。  なんか……最近の石動先輩は、ちょっと変な気がする。  前から理解不能な人格をお持ちな方ではあったのだが、最近はそれに拍車がかかっているのだ。  今日のように部室で二人っきりになるとなんの理由もなくいきなりキレだしたり、昼寝してるときの顔を見たとかで真っ赤になるほど怒ったり、みちる先生にコスプレさせられてるとき気を遣って「似合ってますよ」とか言ったら異様なほど激怒したり……つまり、前よりキレやすくなっているのだ。迷惑なことに。  一週間ほど前の桜守祭が終わった頃からだろうか、先輩がそんなふうにキレやすくなったのは。いったいどうしたというのだろう、ほんとに。  まあ、そのことはいったん置いておくとして。  先輩が沈静化した頃を見計らって、俺は声をかけた。 「石動先輩、あの……ちょっと訊きたいことがあるんですけど」 「なによ?」 「結野に……なにか言いました?」 「は?」  ——結野が急に変貌したのは、石動先輩のせいではないのだろうか。俺はそう思っていた。  先輩は、俺のドM体質を治すためにこれまでいろいろな方法を考え出してきた。そのどれもが突拍子のないもので、効果もまったくなかった。  だが先輩は反省も諦めることもせず、次々とハチャメチャなドM体質治療方法を考え出しては、後先考えずにその方法を試しちゃったりする。その結果、俺はいつも酷い目に遭ってしまう。  だから、今回の結野の変貌も、石動先輩が関係しているのではないかと思った。  先輩はいつものようにヘンテコなドM治療方法を思いつき、それを実行しようとした。それがどんな方法かは具体的にはわからないが、その方法には結野の協力が必要不可欠だった。結野は先輩に頼まれ、俺に四つん這いになれと命令したり、牛乳で濡れた雑巾をしゃぶれとか言ってきたのだ。  いま思えば、朝や昼休みの結野は、メチャクチャなことをしながらもどこか迷ったり躊躇ったりしているような気配があった。  それは、結野が本心から俺にひどいことをしたかったわけではなく、先輩に協力を頼まれて渋々おこなったからではないだろうか。  それが、俺の立てた仮説だった。  と、いうことを石動先輩に言ってみたら—— 「こぉのクソブタがぁ……部室にやって来るなり、なに意味不明な濡れ衣着せてやがんのよ。虐待するわよ?」 「も、もうしてますうううううう————っっ!」  話を聞いた先輩は一瞬でブチキレモードになり、木刀でしこたま殴りつけたあと、床に転がる俺の背中をぐりぐりと踏んづけてくださったのである。最近はちょっと変な感じの先輩であったが、加虐の切れ味はいつも通りなのであった……あ、ああああ…… 「ほんっとムカつくわ。あんたには本格的なおしおきが必要なようね……」 「す、すでに、かなり本格的なおしおきを喰らっているような気がしますが……はあ、はあ、はあ……」  ぐりぐり。ぐりぐりぐり。先輩の足が俺の背中にめり込む。う、うひゃあ……気持ちいいよぉ……  俺が変態的な悦楽に壊れた笑みを浮かべていると——部室の扉が開いた。  扉を開けたのは、教室の掃除で来るのが遅れていた結野だった。  結野は、先輩に踏まれている俺の姿を見ると、両目を大きく見開き、 「な……なにをやってるんですか……?」  先輩は人を踏んづけているのに普通の表情で結野のほうを見やると、 「ああ、嵐子。いまちょっとこいつにおしおきをしてるところなのよ」 「お、おしおき?」 「そうよ。まあ、これはまだオードブルで、本当のおしおきはこれからなんだけど」  ……こ、この先がまだあるんだぁ。ひゅいいいい、たた、楽しみだよぉ……はあ、はあ、はあ…… 「オードブル……これが、オードブル……」  結野は愕然とした表情でつぶやくと、 「う、うう、くっ……」  なぜか苦しそうに呻きながら、その場に膝を落とし両手を床についた。  そして震える声で、 「ダメ……とても敵わない……いまのわたしじゃあ、とても……」 「嵐子? どうしたの?」  先輩は怪訝そうに結野を見つめる。  結野は——  がばっと立ち上がり、鋭い表情を先輩に向けた。 「美緒さんっ!」 「は、はい?」  結野があまりにも切迫した表情をしていたからだろう、石動先輩は目をぱちくりさせていた。  結野はぐっと拳を握りしめると、 「わたし、ちょっと修行をしてきますので、しばらく学校を休みます! だから部活にも出られません!」 「へ……?」 「ではっ!」  言うと、結野は部室を出て行ってしまった。 「…………」 「…………」  俺と先輩は、ぽかんとした顔を見合わせた。 「……修行?」  先輩が首をかしげながら、ぽつりとつぶやいた。  帰宅し、夕ごはんを食べた俺は、自室のベッドに寝っ転がっていた。 「結野のやつ、マジでどうしちゃったんだ……?」  ぼんやりとつぶやく。  俺に対しての怒りによって態度が変わった。なんとなく、そうではないような気がした。そんな感じではないのだ。 「それに……」  俺は顔をしかめる。 「修行って……なんなんだ?」  修行とは、なにかを訓練することである。結野はなにを訓練するつもりだろうか。しかも結野は、その修行のために学校を休むとまで言っている。 「ううむ……」  わからない。結野がなにを考えているのか、さっぱりわからなかった。  俺が難しい顔で唸っていると——  いつものように唐突に部屋のドアが開き、そこから小柄な女性——俺の姉である砂戸静香が「ちょわああっ!」と謎の雄叫びを上げながら突進してきた。 「ぬおう——っ!?」  驚き、がばっと上半身を起こす。そこに姉貴がダイブしてくる。  姉貴は俺の胸にぎゅーっと抱きつくと、大声でこう言った。 「——お兄ちゃんっ!」  一瞬、思考が停止する。 「……あ?」 「お兄ちゃん、大好きだよぉ! 静香はね、太郎お兄ちゃんのことが世界で一番大好きなのっ! だから、お兄ちゃんの肉欲が命ずるままわたしの体をメチャクチャにして!」 「俺の肉欲はそんな背徳的なこと命じねえよ!」 「お、お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん! ああああ、お兄ちゃんが血のつながった妹の肢体を舐め回すように凝視してるよぉ……そ、そのイヤラシイ視線でわたしも興奮しちゃうの……あはぅ、くぅ……」 「なにを一人で盛り上がってやがる! おまえは本当に変態だな! というか……」  俺はジト目で姉貴を見下ろしながら、 「姉貴……お兄ちゃんってなんだよ? ついに頭がおかしくなったのか?」  尋ねると、姉貴はきょとんとした顔で首をかしげた。さらさらの髪が肩から滑り落ちる。 「太郎お兄ちゃんは、お兄ちゃんって呼ばれてうれしくないのかな?」 「当たり前だろうが……」  だって、お兄ちゃんじゃありませんから。 「じゃあ、お兄様がいい? それとも兄君《あにくん》? バカ兄貴?」 「どれもノーサンキューだ!」  俺は片手で頭を抱える。それから、噛んで含めるように、 「おい。なんで、姉貴が俺のことを『お兄ちゃん』なんて呼ぶんだよ。姉貴は、俺の姉貴で、妹じゃないだろうが」  ……ああ、どうしてこんな当たり前のことをわざわざ口に出して言わなければならないのか。あまりにアホらしくて泣きたくなる。 「それはね……」  姉貴は俺の目の前で両拳を作り、真剣な顔で叫んだ。 「いまの時代——姉萌えよりも妹萌えのほうが優勢だからだよっ!」 「あんたなに言ってんの?」 「世間の声に耳を傾ければ、それは自ずとわかってしまうことなんだよ……悲しいかな、それが現実……」  言って、悔しそうにかぶりを振る。 「それを悟ったとき、わたしは気づいたの! 太郎ちゃんがわたしの愛を受け入れてくれないのは、わたしがお姉ちゃんだからじゃないかって! もしわたしが妹だったら、きっと太郎ちゃんはわたしにラブラブフォーリンラブだったはずだよっ! そーゆーわけでお姉ちゃんは今日から妹ちゃんになることにしましたっ! よろしくねっ!」 「よろしくじゃねえ! 姉でも妹でも身内には変わりねえんだから一緒だろうがっ! そーゆーわけで絶対ラブラブフォーリンラブにはなりませんからっ! 残念っ!」 「大丈夫っ! 姉はダメだけど妹ならわりといろいろオッケーなんだよっ! 世間の声がそう言ってるから間違いないよっ!」 「そんなわけあるかっ! それはどこの特殊な世間だっ!?」  そのとき、ドアのほうに人の気配が。そちらに顔を向ける。  そこにいたのは、穏やかな顔立ちをした女性——俺の母親である砂戸智子だった。 「話は聞きましたよ……」  言って、母さんは部屋に入ってくる。 「太郎さんは、妹萌えだったんですね」 「違う!」  姉貴が勝手に言ってるだけだ!  姉貴はジト目で母さんを見上げながら、 「お母さん。もしかして、お母さんも妹になるとか言うの? でも、それは無理があるよ。ロリロリ美少女であるわたしならともかく、お母さんが妹になるっていうのは、もはや滑稽を通り越して哀れですらあるよ」  自分でロリロリ美少女とか言うなよ……  母さんは—— 「ふふん。そんなことはしません」  なぜか余裕の表情。俺のベッドに近づき、姉貴の体をポイッと脇に捨て、 「太郎さんは、妹萌え……つまり、妹が欲しいんですよね……?」 「そんなこと一言も言ってな——」 「だったら、いい方法があるんです!」  言って、母さんは俺に抱きついてきた。 「うおおうっ!?」 「太郎さん! 子供を作りましょう!」 「ばぶらっ!? あんたストレートになに言ってんだ!? さすがに引くわ!」 「私は太郎さんのお母さんですので、私が女の子を産むと、その子は太郎さんの妹ということになります! 太郎さんの大好きな妹ができるんですよ! だから、私とのあいだに子供を作りましょう!」 「妹であると同時に娘でもありますね! そんなカオスな関係イヤすぎるだろうが!」 「とりあえず妹を作るための行為をしましょう! いますぐしましょう!」 「するかっ! もういい加減にしてくれたまえ!」 「そうだよお母さん! 太郎ちゃんの妹はわたしだけなんだからねっ!」  叫びながら、姉貴が再び俺に抱きついてくる。 「い、妹じゃねえ! 俺に妹はいねえ!」 「太郎さん、妹を作りましょうよ!」 「イヤだって言ってるだろうが!」 「じゃあ仕方ありません! やっぱり私も太郎さんの妹になります! お兄たまぁ!」 「だから妹はわたしだって——」 「あああああああ! こんな家族もう嫌だああ!」  俺は部屋の窓を開け放ち、夜の中へと身を投げた。自由を求めて。  そして、三日が経った。 「嵐子、マジで学校来ないわね……」  椅子に座っている石動先輩が、腕を組みながら言った。  放課後の部室。俺と先輩、みちる先生は難しい顔をしていた。 「電話してもメールしても無反応だし……ほんと、なにやってるんだか……」  なんだかイライラしているように見える先輩。きっと結野のことが心配なのだろう。  この三日間、結野はずっと学校を休んでいた。宣言通りに。  休んでいるのは結野だけじゃない。なぜか、間宮さんも学校を休んでいるのだ。偶然なわけはないと思うので、たぶん間宮さんは結野といっしょにいるのだろう。先輩がぼやいた通り、本当になにをやっているのだか……  先輩はふぅと息を吐き出すと、 「あたし、思うんだけど……」  言いながら、先輩から少し離れたところに座る俺のほうを見てくる。 「嵐子が変になったのは、たぶんあんたのせいよ」 「え……ど、どういう理屈でですか?」 「あたしの直感がそう言ってるのよ」  先輩は俺を鋭く睨みつけ、 「嵐子が学校にも部活にも来ないのはあんたのせい。とゆーことは、あたしの落ち着かないなんかイライラした気分も、あんたのせい」  静かに立ち上がる。俺の背筋が反射的にビクッとなる。 「だから……あんたには、このあたしのイライラを鎮める義務があるのよ」  ゆっくりと、先輩は俺のほうに近づいてくる。  俺は椅子から立ち上がった。それは肉体が本能的な危機を察知し、それから逃げ出そうとしたためだった。  先輩は当たり前のように、 「じゃあ、殴るわよ」 「な、なんでですか!? ちょ、ちょっと、問答無用で拳を振り上げないで……」  そのときだった。部室の扉が勢いよく開いたのは。  俺と先輩の視線がそちらに向かう。 「あ……」  俺の口から声が漏れる。  そこにいたのは——結野と間宮さんだった。 「ゆ、結野……それに、間宮さんも……」  結野は凛とした様子でこちらを見つめている。その隣には間宮さんが両腕を組みながら立っていた。 「嵐子っ!」  先輩は拳を下ろし、結野に近づく。 「あんた、三日もなにしてたのよ!? 連絡もしないで——」 「美緒さん」  結野は先輩をまっすぐ見つめ、言った。 「わたしと……勝負してくださいっ!」 「……へ?」  先輩はぽかんとした顔で、 「勝負って……いったいなんの?」 「それは……」  結野はほとんど先輩を睨みつけるようにしながら、 「どちらが真のドS少女なのか——それを決める勝負ですっ!」  と、言った。 「…………」  先輩はぽかんとした顔のまま、停止していた。俺も同じような感じだった。 「えーっと……」  先輩は指先でぽりぽりと頭を掻く。 「で、なんの勝負って言ったの?」 「だから、真のドS少女を決める勝負ですっ!」 「ごめん。まったく意味がわからないんだけど……」  先輩は困惑した表情でつぶやく。こんな顔をしている先輩は珍しい。 「それは、わたしなんか敵ではないということを遠回しに言っているんですか?」 「いや、そーゆーわけじゃなくて、純粋に意味がわからなかったというか……」 「わたしは、サディスティックな少女にならなければならないんですっ! 美緒さんを超えるほどのドS少女に! というわけで美緒さん、わたしと勝負してくださいっ!」 「ちょ、ちょっと嵐子! あんたなにわけわかんないこと言ってんのよっ!」  石動先輩は困った顔で告げる。 「ドS少女を決める勝負? なにそれ? とゆーか、あたしはべつにドS少女ってわけじゃないし!」  先輩がそう言うと——  一瞬、部室がしんとなった。  皆、無言で先輩を見つめている。 「……なによこの空気?」  先輩は、ジト目で周りを見回す。 「びっくりした……自覚なかったんですか?」 「ああ?」  思わず言ってしまった俺に、先輩の強烈な眼光が突き刺さる。間違いなくドS少女の眼光だった。はあ、はあ、はあ……  結野はぐっと先輩に詰め寄り、 「お願いです! 勝負してくださいっ!」 「イ、イヤよ! なんでそんな勝負——」 「勝負してくれなければ、わたし、第二ボランティア部を辞めます!」 「ええっ!? ちょ、ちょっと嵐子……」  先輩が驚きの声を上げる。 「本気です! だから美緒さん、勝負してください! 一回だけでいいんですっ!」 「…………」  石動先輩はかなりのしかめっ面をしていた。  結野は真剣な表情。俺は唖然としながらその表情を見つめていた。  結野……三日ぶりに学校に来たと思えば、いきなりなにを言い出すんだよ。あまりに意味不明すぎるぞ。  というか、真のドS少女を決める勝負って、なに?  結野は、あんぐりする俺のほうをチラッと見た。  が、それは一瞬のこと。すぐ先輩のほうに視線を戻す。 「なるほど……」  と言ったのは、いつの間にか俺の隣に立っていたみちる先生だった。 「ふむ、そういうことか」 「みちる先生?」  みちる先生はいつもの抑揚のない表情と声で、 「嵐子の考えていることは、だいたいわかったよ」 「え……? わ、わかったんですか?」 「ああ。私ほどの洞察力があれば、楽勝だ」  俺にはなに一つわからない。みちる先生がなにを『わかった』のかさえ、いまいちよくわからなかった。 「あの……教えてください。その、わかったことを」 「それは、私の口からは言えないな」  と、みちる先生は言った。 「特に、君には言えない」 「な、なんでですか?」  尋ねる。が、みちる先生はそれを無視し、先輩と結野のほうに近づいていった。 「美緒。嵐子がここまで言ってるのだから、勝負してあげればいいではないか」 「え……?」 「美緒が勝負を拒否すれば、嵐子は部活を辞めてしまう。それは嫌だろう?」 「イヤ! 絶対にイヤよっ!」 「では、勝負してあげればいい。それで嵐子の気も済むようだし」 「でも……そんな勝負を受けても、あたしにはまったくメリットないし……」  先輩がつぶやくと、 「わかりました。じゃあ、メリットを用意します」  結野が言った。 「もし、美緒さんが勝ったら——一日だけタローを自由にできる権利を与えます」 「えっ!?」  と驚きの声を上げたのは、もちろん俺だった。 「ブタロウを自由に?」 「そうです。どんなことをしても自由です。た、たとえばデートとか……」 「どんなことをしてもいいの? どんなふうにこき使っても?」 「はい、どんなことでも。た、たとえばデートとかでも……」 「ふむ……それはちょっと便利ね。わかったわ! そーゆーことなら、この勝負、受けてやるわよっ!」 「ほ、ほんとですか!?」  結野がうれしそうに声を弾ませる。俺は慌てて、 「ちょ……ま、待ってくださいよ!? 俺の意志をまったく無視して——」 「ありがとうございます、美緒さん!」 「礼には及ばないわ。でも嵐子、あたしはすっごい負けず嫌いなんだから、どんな勝負でも手加減はしないわよっ! たとえ相手があんただったとしても!」 「もちろんですっ! お互い、全力で戦いましょう!」  先輩と結野の全身から気合いの炎が燃え上がる。二人のバックに、睨み合う龍と虎が見えるようだった。 「い、いつの間にか、俺の身柄が景品に……」  俺は戦慄しながらつぶやいた。この空間に人権というものは存在しないのか?  みちる先生は結野を見下ろしながら、 「嵐子。君は、自分が美緒よりもサディスティックであるということを証明したい。そのために、美緒と勝負するのだな?」 「はい! その通りです!」  と、結野は力強くうなずく。 「わかった。ではこの勝負、私が取り仕切ろう」 「取り仕切るって……みちる先生がですか?」  そう言ったのは、結野の隣でずっと黙っていた間宮さんだった。 「ああ。勝負の内容、勝敗の決め方など、そういうことは私に任せてくれないか?」 「そうですね……一応、わたしたちのほうでも勝負内容などは決めてきたんですけど、みちる先生に任せるほうが公平かもしれません。でも、美緒さんに有利な勝負を提案するとかはなしにしてくださいよ?」 「すべて公正に執り行うことを誓うよ。美緒と嵐子も、それでいいか?」  先輩と結野が同時にうなずく。 「で……」  先輩はみちる先生を見上げ、 「どんな勝負で勝敗を決めるの?」 「うむ、そうだな……」  みちる先生は両腕を組み、しばしのあいだ考える。  それから、チラリと俺のほうを見ると、 「では……こういう勝負はどうだろう」  俺は、部室にある椅子の一つに座らされている。  俺の前には、石動先輩と結野が立っていた。 「勝負は三本勝負だ。二本先取したほうが勝ちだな」  と、みちる先生が言った。  みちる先生のそばにある机の上には、小さな箱が置いてある。それには手を入れるための穴が空けてあった。 「この中に勝負内容が書かれたカードが入っている。それを引き、選ばれた勝負内容に従い——美緒と嵐子は砂戸太郎を加虐する。そして、先に砂戸太郎を悶えさせるほどのドM的悦楽を与えたほうが、その勝負の勝者だ。砂戸太郎の興奮状態を見て勝者の判定を下す役割は私が行う。これでいいか?」  みちる先生が尋ねると、先輩と結野はゆっくりとうなずいた。 「うむ。では、はじめようか。カードを引く役目は、砂戸太郎にやってもらおう」  言って、みちる先生はカードが入っているという箱を俺のほうに差し出す。  俺は一度ため息をついてから、箱の中に手を入れた。  引いたカードには——ドSモノマネという謎の言葉が書いてあった。 「第一勝負は……ドSモノマネに決定した」  カードを受け取ったみちる先生が言う。 「モノマネで砂戸太郎を加虐する。それ以外での加虐行為はナシだ。あと、男性恐怖症で男性の体に触れられない嵐子を考慮し、砂戸太郎の肉体への直接的な加虐も禁止ということにしよう」  石動先輩は顔をしかめ、 「モノマネって……それでどうやってブタロウをいじめればいいのよ? とゆーかあたし、モノマネなんてできないし」 「特定の個人のモノマネ以外に、なにかしらの職業を模倣するのもアリだ。その場合、その職業の制服的な衣装を着てもらうことになるが。たいていの衣装は奥の部屋に用意してあるので、それを利用するのもいいだろう」  と、みちる先生が言う。……あの人はどうせ、そういう衣装を着た先輩や結野の姿を写真に撮りたいだけなんだよな。  つーか、いったいなんなんだよ、この勝負は……  俺は呆れてため息をついた。どうしてこんなことになったのか、まったく意味がわからない。やれやれだ。 「嵐子、がんばって」  間宮さんが結野に声をかける。結野は振り向き、 「由美……いや、師匠。この三日間、本当にありがとう」 「嵐子……もうあなたに教えることはないわ。自分の力を信じなさい。きっと勝利を手にすることができるはずよ」  結野と間宮さんはじっと見つめ合ったあと、がしっと握手をかわす。……師匠?  そして、結野は奥の部屋へと向かっていった。  俺が間宮さんのほうを見つめていると、 「……ふん」  それに気づいた間宮さんは不機嫌そうに鼻を鳴らし、 「……本音を言うなら、今回は嵐子に協力したくなかったわ。わたしの大事な嵐子とド変態野郎の距離を近づけるような手助けなんて。でも、嵐子があんな必死に頼み込んでくるものだから……親友の頼みを無下にすることなんてできないもの……」  ため息混じりにつぶやくと、俺から顔を逸らした。なにを言ってるのかさっぱりわからない。ちんぷんかんぷんだった。  一方、石動先輩のほうは—— 「なにかしらの職業か……」  顎に手を当て、なにやら考え込んでいた。  が、やがて、 「よし。あれでいくか」  つぶやくと、結野に少し遅れて奥の部屋に入っていった。どうやら二人とも芸能人のモノマネとかではなく、衣装を着てなにかしらの職業を模倣するつもりのようだった。  しばらく待つ。  先に奥の部屋から出てきたのは——結野だった。 「ゆ、結野……」  俺はぽかんと口を開けていた。  結野は、婦人警官の格好をしていたのだった。  ブラウスにネクタイ、その上に青色のジャケットを着ている。スリットの入ったタイトスカートから伸びる太ももに、俺は目を奪われていた。 「このド変態が! 逮捕しちゃうわよっ!」  結野はキッと俺を睨みつけながら、言った。みちる先生は当然のようにデジタルカメラのシャッターを押している。かなり連続で。 「あ、ああ……逮捕されたいよぉ、はあ、はあ、はあ……」  俺は結野の衣装と強烈な眼光に参ってしまっていた。  結野は腰に両手を当て、とても嫌そうに俺を見下ろすと、 「なに興奮してるの、気持ち悪い変態ねっ! あんたはもう変態の現行犯で懲役二十五年よ! ブタ犬はおとなしくブタ箱に入ってなさいっ! そして臭いブタメシを食べてなさいよっ!」 「あ、あひゅう……」  その罵倒は、三日前とは比べものにならないほど洗練されていて、強烈だった。  三日前の結野は、俺を罵倒していてもどこか躊躇や遠慮があった。それが俺のドM的快感を少し阻害していた。が、いまの結野にはそれがまったくない。 「こ、ここ、こいつはまさに、ドMのIT革命やあ〜っ!」  すげえよ、結野。もう最高だよぉ! 「え、快楽の宝石箱でもあるんやぁ……はあ、はあ、はあ……」 「これは……嵐子の勝ちで決まりか?」  みちる先生は両手に赤と白の旗を持ちながら、俺の様子を注意深く見守っている。  そのときだった。  奥の部屋から、ゆっくりとした足取りで先輩が姿を現した。  石動先輩は——  黒い聖帽に、同色の聖衣。胸元の十字架。  そう、先輩は修道女……シスターの格好をしていた。  その衣装には加虐的な要素などなにもない。  シスター石動は、優しげなほほ笑みを浮かべながら俺を見つめ、 「——懺悔しなさい」  と、静かに言った。 「え……ざ、懺悔?」 「はい。あなたのキモさを懺悔しなさい」 「キ、キモさを?」 「そうです」  先輩はあくまで穏やかだった。 「あなたはキモい。スーパーキモい。ですが、懺悔すれば神はあなたのキモさを赦すことでしょう。あなたの魂に安らぎがあらんことを。ラーメン」  ……驚きだ。この平成の世の中に、アーメンをラーメンと言い換えるようなサムいことをする人間がまだいたとは。そんな、昭和に置き去りにされたようなダジャレを言う人間が。  だが…… 「はあ、はあ、はあ……」  穏やかな瞳の奥に見え隠れする、確かな侮蔑の感情。結野のような直接的ではない、変則的な加虐に、俺は静かに悦楽ポイントをアップさせていた。  そして。 「あっ。やっぱり懺悔はけっこうです」  言って、先輩はにっこりと笑う。 「へ?」  いつも聖母のような笑みをたたえているイメージのシスターさまが——一転、露骨な嫌悪に表情を歪ませた。 「神よ、どうかあたしをお赦しください。あたしはもう我慢できません。こんな、えげつないほどキモい生き物を目の前にして——いつまでも笑ってなんかいられるかこのブタ野郎っ!」 「おぶっ!」 「ああもうハイパーキモい! あり得ない! つーか死ね! 懺悔とかいいから死ね! 一秒でも早く地上から消え失せろ! この虫けらが!」  暴言。シスターさまの考えられない暴言。  そんなことをされちゃうと、俺はもう—— 「ハイイイイイッ! し、死にますぅ! ボクちゃんはキモちゃんだからもう死にまひほふへひはあああ! らーめんんんん!」  ドMの快感が暴発してしまった。  俺は石動シスターの足もとに跪くため立ち上がろうと——したところで、後ろ襟をみちる先生に掴まれた。無理矢理に椅子に押さえつけられる。  みちる先生は赤い旗を掲げながら、 「勝負あり。第一勝負の勝者は、美緒」 「よっしゃー!」  石動先輩は満面の笑顔で拳を振り上げる。 「な——そ、そんな……」 「ば、馬鹿な……」  結野と間宮さんが顔を青ざめさせる。  石動先輩は得意げに、 「ふふんっ。婦人警官か……確かに悪くはない。でもね、嵐子は知らなかったかもしれないけど、その格好はあたしが前にやったことあるのよ」 「えっ!?」 「つまり、あんたは知らないうちにあたしの背中を追いかけていたというわけ。その調子であたしを追い続けなさい。まあ、そんな二番煎じを続けている限り、この美緒さまに追いつくことは一生できないだろうけどね」 「く……」  結野が悔しそうに呻く。  が、気を取り直すように、 「ま、まだ勝負はこれからです! みちる先生、次の勝負を!」 「——第二勝負は、『ドSサイレント』だ」  俺が引いたカードを見ながら、みちる先生は言った。 「ド、ドSサイレント?」  なにそれ? 「音を立てることは禁止。無音の中で砂戸太郎を加虐してもらう。では、勝負はじめ」  と、みちる先生が告げる。 「音を立てることは禁止? そんな状態でどうやって……」  石動先輩は難しい顔で言った。ちなみに、先輩も結野もすでにもとの制服に着替えている。  先輩はしばらく迷った末、俺を睨みつけると——  なんか、無言でシャドウボクシングをはじめた。  鋭い眼光を俺に向けながら、神速のワンツーそしてアッパー。 「えーっと……」  あの人はなにをやってるんでしょうか……  パンチだけではなく、そこに蹴りも加わる。熊でも気絶させることができるんじゃないかというほどの鋭い回し蹴り。が、意味は不明。  もしかして……  あれが加虐のつもりなのだろうか。  確かに音は立ててないけど、さすがにあれでは悶絶するほど気持ちよくなることはできない。……いや、先輩の眼光とかあの蹴りを喰らったら俺の体はどうなっちゃうんだろうっていう想像で、ちょっとは気持ちよくなっているのだが。  そのとき——俺の携帯電話が短い着信音を鳴らした。  メールの着信音だ。俺は携帯電話を取り出し、メールを開いた。  そこには—— 『気持ち悪いブタ犬! おまえはどうしようもないほどのド変態野郎ね! あまりに変態すぎて逆に尊敬しちゃいそうよ! ウソだけど!』 「こ、これは……」  弾かれたように顔を上げる。  俺の視線の先には、携帯電話を取り出し、めるめるとメールを打っている結野の姿があった。  そ、そうか、音を立てることは禁止だからメールで…… 『おまえは本当にブタ犬だわ! いや、むしろブタドッグだわ! もうほんと犯罪的にキモい! キモすぎる罰として毎食後に氷水をぶっかけてやるわよ! そして一句——ブタ犬や、あり得ないほど、ブタくさい』 「ひ、ひどい……なんてひどいメールなんだ……はあ、はあ、はあ……」  俺は息を荒らげながらつぶやいた。  でも……文字による侮蔑は新鮮で気持ちいい。  かなり気持ちいい。  こんな素敵なメールが毎日来たら、俺は……俺は…… 「はあ、はあ、こんな感じのメルマガに登録したいよぉ! はあはあはあはあ……」  俺はめひょめひょ笑いながら叫んだ。  みちる先生が白い旗を掲げ、 「——勝負あり。第二勝負の勝者は嵐子」 「な……」  石動先輩から驚きの声が漏れる。 「や、やったっ!」  うれしそうに言って、結野は拳を振り上げる。 「美緒さんから一勝とったわ! す、すごくうれしい……」 「嵐子……あやつ、いつの間にか師匠を超えよって……」  間宮さんの目尻には涙が光っていた。 「まさかメールを使うとはね……」  石動先輩は真剣な目で結野を見つめ、 「嵐子……前言は撤回するわ……」  低い声で告げる。 「あんたはいつの間にか、この美緒さまの背中に追いついていたのね。……この子をなめていると、こっちが殺られる……!」 「美緒さん……次が、最後の勝負ですね……」 「ええ……」  先輩と結野がにっと笑みをかわす。それは、二人がお互いを最高の好敵手《ライバル》と認めた瞬間だった。  俺が引いたカードを見て、みちる先生は言った。 「最後の勝負は『ドSモノボケ』だ」  俺は勝負内容が書いてあるカードを引き終えたあと、椅子にロープで縛り付けられた。  興奮して席を離れてしまわないための措置だった。この措置だけでもごはん三杯くらい軽くイケそうなほど気持ちよくなってしまっている俺であった。  つーか……ドSモノボケってなんですか?  大きな机の上に、みちる先生がいろんなところからかき集めてきた様々な道具が乗せられている。 「ここにある道具を使って、砂戸太郎を加虐する。それがドSモノボケだ。決着がつくまで時間は無制限。では、勝負はじめ」  みちる先生のかけ声と同時、石動先輩と結野は机の上に張り付くようにして、そこにある様々なアイテムを見つめる。『モノボケ』の『ボケ』ってなんだよべつにボケるわけじゃないじゃねえかと俺は疑問に思ったが、先輩と結野は特におかしいとは思わなかったようだ。必死な形相でテーブルの上を漁っている。  先に動いたのは——  石動先輩だった。  先輩が選んだのは、大きなパンダのぬいぐるみだった。  先輩はそのぬいぐるみを地面に置くと、 「——この、ブタ野郎が!」  と、ぬいぐるみを罵倒した。 「おまえは変態のブタロウよ! このくされマゾヒストが! いまから美緒さまが踏んづけてやるわ!」  先輩はぬいぐるみに蹴りを入れて仰向けに倒すと、その顔面をぐりぐりと踏んづけた。 「どう、気持ちいい? 気持ちいいのね? このド変態が!」 「あ、ああ……はあ、はあ、はあ……」  俺は息を荒らげながら、つぶやく。 「き、きき、きもちいいでしゅ……とってもきもちいでしゅううう……」  ——あのパンダのぬいぐるみは、俺なのだ。つまりはそういうことなのだ。  先輩はぬいぐるみを俺に見立てている。そして俺はぬいぐるみに異常なほど感情移入し、気持ちよくなっている。これは素晴らしき共同作業なのだ。  さ、さすが先輩……すげえぜ……  俺はごくりと唾を飲み込む。  そして、結野は——  テーブルの上にあったスケッチブックを手にしていた。黒いマジックでそのスケッチブックになにやら書き込んでいる。  結野はそのスケッチブックを俺のほうに掲げ、そこに書いてある言葉を読んだ。 「ブタ犬の——『ぶ』!」  大声で言う。 「ぶち殺したいわよ、ほんとに!」  続けて、 「ブタ犬の——『た』!」  どうやら……それは、『ブタ犬』のあいうえお作文のようだった。 「たまらんほどキモすぎるんだから、もう!」  と、力いっぱい叫ぶ。 「ブタ犬の——『い』!」 「…………」 「いつまでも調子に乗ってんじゃないわよ、ド変態が!」  ざ、斬新だ……すげえ斬新な加虐だ…… 「ブタ犬の——『ぬ』!」  そのチャレンジスピリットに……俺は完敗しそうだ。 「ぬるぬるしてんじゃないわよ、この家畜が! ア、アホ!」 「ぬ、ぬるぬる……?」  なんだかよくわからないけど…… 「はあ、はあ、はあ……」  なんとなく興奮しちゃう。そんな俺だった。 「あ、嵐子……それはちょっとよくわからない……」  間宮さんが頬に汗を流していた。  続いて、石動先輩のターン。  先輩は、テーブルの上に置いてあったナスビを手に持っていた。あと、爪楊枝も。 「この、クソブタが……喰らえぇ!」  先輩はつぶやくと、ナスビに爪楊枝をぶすっと突き刺した。 「どう、痛い? 痛いの?」  どうやら、ぬいぐるみの次はあのナスビのようだった。  石動先輩はじっとナスビを見つめながら、 「ふんっ。いつの間にかメタボリックな体型になっちゃって。マジでブタよね」  もう一本、爪楊枝を突き刺す。さらにもう一本。さらに。  先輩は四本の爪楊枝を突き刺したナスビを机の上に置くと、両腕を組み、それはそれは見事な嘲笑を浮かべた。 「その四つん這いの姿があんたにはお似合いよ! 一生そうやって地べたを這いつくばりながら生きていきなさい! このブタナスビが!」  なんか、お盆のときのお供えものみたいになっちゃったナスビを罵倒する石動先輩。  はっきり言って理解不能なパフォーマンスなのだが…… 「はあ、はあ、はあ……つ、爪楊枝が痛いよぉ! そして気持ちいいよぉおぉお!」  俺は椅子をガタガタ揺らしながら絶叫した。  生粋の変態である俺は、あんなナスビにすら自分を重ねることが可能だった。  そして結野のターン。  結野はもう一度スケッチブックを使うようだった。  俺に向けて掲げられたスケッチブック。そこには人の顔が描かれている。あまりうまくはないが、それはどうやら俺の似顔絵のようだった。  結野は俺がその似顔絵を見たことを確認すると、ぺらっと紙を一枚めくった。  次のページにも似顔絵。が、その上のほうにつららの絵が描き加えられている。  ま、まさか……あのつららが……  結野はもう一枚紙をめくる。  予想通り! 落下した巨大なつららが、俺の顔面を貫いていた。俺はぶわーっと雑に血を流しながら、ふきだしで「ぎゃー!」と叫んでいた。 「うがああ! つ、つららが刺さっちゃったよぉ!」  さらに結野は紙をめくる。そこにはまた俺の似顔絵があった。  紙をめくる。次も似顔絵。が、なんか鼻の穴から紐のようなものが伸びている。その先端には火花のようなものが描かれていた。  もしかして、あれは、導火線……?  紙をめくる。  火花が導火線の中ほどくらいまで進んでいた。俺はドキドキしちゃっていた。  そして、結野はもう一枚紙をめくった。  次の俺の似顔絵は——ボカーンと爆発していた。爆発しながら「げひょおお!」と叫んでいた。 「げひょおおおおお! ば、爆発しちゃった! 俺の顔面が爆発しちゃったあぁあ!」  俺はえひゃえひゃ気持ち悪い笑みを浮かべながら、悦楽の歓声を上げた。 「あ、あんなのでも興奮できるの……?」 「砂戸太郎……今日の君は、普段よりなんでもアリだな……」  と、間宮さんとみちる先生が微妙に呆れた感じでつぶやく。  真のドS少女を決める勝負は、もう凡人にはまったく理解できない高次元領域へとシフトしてしまっていた。  その後も——石動先輩と結野の加虐合戦は続いた。  意味不明なドSモノボケ。途中、興奮して熱くなった先輩が俺にアボカドを投げつけたり、同じく熱くなった結野がオモチャの札束で俺の顔面をはたくというシーンがあり、みちる先生は二人にイエローカードを出した。  二人に斬新な責められ方をされる俺は、部室の変な空気の影響もあり、ブレーキが利かない感じにドM的興奮を高めていった。つまり、ノンストップでクライマックスにドM的悦楽が上昇していき——  そして。  悲劇は起こった。  ドSモノボケがはじまって、二時間くらい経ったとき。  俺は—— 「——————————————ぶびびっ!」  ついに、限界を迎えてしまった。 「ぶびっ…………ばぶっっ! ば……ぼ……! ……………………る……っ!」  がくん、と頭が落ちる。 「へ……?」 「え……?」  道具を選んでいた先輩と結野の動きがぴたりと止まる。 「ブ、ブタロウ?」 「タ……タロー?」 「ちょ……こ、この痙攣の仕方、マジでやばくない!?」 「あ、ああ、瞳孔が開きっぱなしで……く、口から尋常じゃないほどの泡が……」 「が、顔面が青くなって——えええ!? みゃ、脈が弱くなってるわよ!? ブタロウ!」 「こ、呼吸もなんだか……タ、タロー! しっかりしてえええええ!」 「父さーん! いくよー!」  言って、俺は手に持っていた野球ボールを力いっぱい投げた。  父さんは左手のグローブでそれをキャッチし、 「ナイスボール!」  と、うれしそうな声を上げる。  俺は笑顔で、父さんから投げ返されたボールをキャッチする。  ああ、楽しい……本当に楽しいなあ……  ただボールを投げ合っているだけなのに、どうしてこんなにも楽しいんだろう。  どれくらいボールを投げ合っただろうか——  父さんは俺にボールを返しながら、 「太郎、これで最後だ!」 「ええー……もっと、遊びたいよぉ!」 「ダメだよ、これで終わり。さあ、最後の一球だ! 思いっきり投げてこい!」 「うんっ!」  俺は、大きく振りかぶり、力いっぱいボールを投げた。  それをグローブで受けた父さんは、満足そうな笑みを浮かべた。  そして、少しだけ寂しそうに、 「……久しぶりに太郎と会えて、父さんはうれしかったよ」  と、言った。 「でも、太郎。おまえはまだこっちの世界に来てはいけない」 「父さん?」 「母さんと静香のこと、よろしく頼むぞ」 「父さん……ねえ、どこに行くの? 父さーん!」 「太郎……負けるなよ。マゾヒズムに、負けるな……」  俺に背を向けた父さんの姿が、次第に遠くなっていく。  父さん! 待ってくれよ、父さん! 「……父さーんっ! カムバ————ック!」  叫びながら、上半身を起こした。 「……ん? あ、あれ?」  お、俺はいったい……というか、ここはどこだ? 「……タ、タロー?」  声がする。そちらのほうを見ると、そこには結野がいた。 「あ……結野……」  椅子に腰かけながら、俺のほうを見ている。  そして俺は、どうやらベッドに寝かされていたようだった。ここは……ああ、保健室か。 「タロー、あの……」 「ん?」 「父さん、とか叫んでたけど……大丈夫?」 「あ、ああ。ちょっと父さんの夢を見ていたんだ」  小さな子供の姿をした俺が、父さんとキャッチボールをしている夢。  いや、夢とはちょっと感触が違ったような気がしたけど……まあいいや。  結野はホッと安堵の息を吐き、 「でも、よかった……無事に息を吹き返して……」 「息を吹き返してって……大げさだな。それじゃあまるで、俺が死にかけてたみたいじゃねえか」  苦笑しながら言う。が、どうしたのだろう、結野はまったく笑っていなかった。  俺は上半身をもぞりと動かし、 「……俺、あのまま気絶しちまったんだな。で、保健室に運ばれたわけか」 「気絶というか、ちょっとのあいだ呼吸が止まっ——う、ううん、そうなのよ」  結野は、どこかぎこちない笑顔を浮かべながら言った。 「部室でとりあえずの蘇生処置をしてから……あ、そうじゃなくて……と、とにかく、意識を失ったタローを美緒さんやみちる先生が保健室に運んでくれて、気がつくまでベッドで休ませておこうってことになったの……」 「そうだったのか……で、先輩たちは?」 「美緒さんたちは、部室にいるみたい。……なんか、気を利かせてくれたというかごにょごにょ」 「へ? なんて言ったんだ?」 「な、なんでもない!」  言って、結野はぶんぶんと顔を左右に振る。俺は首をかしげた。  それから、 「……タロー」  結野は、とても申し訳なさそうな顔をして、 「本当に、ごめんなさいっ!」  と、頭を下げた。 「え?」 「わたしが美緒さんにあんな勝負を挑んだから、タローは死の淵を……」 「いや……まあべつにいいんだけどな。いつものことだし」  ん? いま結野は、死の淵とか言ったか?  結野はなんだか泣きそうな顔をしている。 「でも……」  俺は結野に尋ねた。 「どうして、石動先輩にあんな勝負を挑んだんだ? 真のドS少女はどちらかを決めるなんて……」  そんな勝負に勝って、結野にどんな得があるのだろうか。 「そ、それは、えっと……」  結野は俺から目を逸らし、 「タローが……」 「へ? 俺がなんだよ?」 「タローが……桜守祭で、美緒さんとばっかり仲良くしてたから……」  と、少し拗ねたような声で言った。 「……は?」  どういうこと? 「手をつないだり、後夜祭までいっしょに……だ、だから……」  結野はうつむき、スカートの上の両拳をキュッと握りしめながら、 「だから……タローは、美緒さんみたいな人のほうが好きなんじゃないかって……美緒さんみたいな、サディスティックな人のほうが……」 「…………」 「タ、タローはマゾヒストだから、やっぱりSっ気の強い美緒さんに惹かれちゃうみたいなところがあるんじゃないかって思ったの。だったら、わたしもそうなろうって……美緒さんみたいに、ううん、美緒さんを超えるくらいのドS少女になろうって……」 「…………」  結野さん? あなたいったいなにを言ってるのですか?  俺が呆然としていると、結野はハッとした顔になり、 「ち、違うの! 違うのよ!」  と、なにかを否定した。なにを否定しているのかはまったくわからなかったが。 「べ、べつに、タローの興味を惹きたかったからとかじゃなくて……なんとゆーか、タローはドMを治したいんでしょ? そ、それなのに、サディスティックだからって理由だけで美緒さんのことを好きになっちゃったら、もうドM体質は加速していくしかないと思うの! そ、それはとっても危険! だからね、わたしもちょっとのあいだだけドSになって、太郎の興味を美緒さんとわたしに分散させてあげようと思ったというかその……」 「は、はあ……」  俺はとりあえずうなずく。  結野は少し頬を赤らめながら、俺を見つめ、 「……ドSになろうと決意してから、わたしは、タローをいろいろいじめちゃおうって考えてたんだけど……部室で美緒さんがタローを踏んづけてる姿を見て、いまのわたしじゃあ、絶対に美緒さんに敵わないって思った。だから、学校を休んで修行することにしたの。サディスティックになるための修行を。一人じゃあ無理だと思ったから、由美に協力してもらって。由美は、わたしが知っている人の中で、美緒さんを除くと一番サディスティックな人だから」  ……確かに、間宮さんはかなりSっ気のある女の子だと思う。 「で、修行して自信がついたから、美緒さんに挑戦したんだけど……それが、こんな結果になるなんて……タローを、苦しめるような結果に……」  結野は憂い顔で言うと、悲しげなため息をついた。 「…………」  結野の話を聞いた俺は、かなりのあんぐり顔をしていた。  結野の行動はその理由を説明されても完全に納得できるものではなかったが——なんというか、俺の体質のことを心配してくれての行動らしいということは、なんとなくわかった。本当になんとなくだが。  でも…… 「ゆ、結野……一つだけ、言わせてくれ……」  と、静かに言った。 「……俺は、ドSな女の子が好きなわけじゃない。ドSな女の子に惹かれたりもしない」  確かに俺は生来のマゾヒストで、女性からの加虐的な行為に快感を覚えてしまうのだが、だからといって、俺を罵倒したり殴ったりしてくださる女性が好きというわけではないのだ……と信じたい。 「ウソ。だって、美緒さんと……」 「なんかいろいろ誤解がある気がするんだが……べつに、桜守祭のときいっしょにいたのだって、本当にただの成り行きだし……」  まだ疑った顔をしている結野に、告げる。 「だから……もう一回言うけど、俺はドSな女の子が好きなわけじゃないから。先輩がドSな人だからというだけで好きになる、惹かれる、みたいなこともあり得ない。結野は俺のことを心配してドS少女になろうと思ったみたいだけど……」  俺は顔の前で両手を合わせ、 「頼む、そんなことはやめてくれ。結野までそんなふうになったら、正直、身がもたない。この通りだから、いつもの結野に戻ってくれ」  本心だったので、かなり必死に訴える。  結野は少しぽかんとした顔をしながら、 「タローは……ドSな子が好きってわけじゃないの? ドSじゃなくて、いつものわたしに戻ったほうがうれしいの?」 「ああ、そうだ。いつもの結野のほうがいい」  俺はため息混じりで、 「俺の興味を先輩と結野に分散させるみたいなこと言ってたけど……それならむしろドSになるのは逆効果だ。俺はドSなときの結野より、いつも通りの結野のほうが好きだから。まあ、当たり前のことだけど」 「す、すすす——好き!?」  結野はピンッと背筋を伸ばした。  顔を真っ赤にしながらうつむく。髪の毛をぺたぺた触りながら、 「タ、タローに好きって言われちゃった好きって言われちゃった好きって……」  なんか、ぶつぶつと唱えていた。その声はあまりに小さすぎて聞こえなかったが。  やがて、 「わ……わかった……」  顔を赤くしたまま、こくりとうなずく。 「タローがそう言うなら……わたし、言う通りにする……」  その言葉を聞いて、俺はホッと安堵の息を吐いた。  ベッドから下りて、 「俺、もう大丈夫だから、部室に戻ろうぜ」 「あ……美緒さんが、部室には戻らなくていいって……」 「え? このまま帰っていいってことか?」 「う、うん。タローが気がついたことをメールかなにかで知らせてくれたら、あとはもう帰っていいって言ってた」  と、結野はぽーっとしたような声で告げる。 「そっか……じゃあ、帰るとするか?」  保健室を出るため扉に向かうとしたとき—— 「タ、タロー!」  がしっと——結野に手首を掴まれた。  俺は驚きながら振り返る。  結野は触れば火傷しそうなほど顔を赤く染めながら、 「わ、わわわ、わたしも、タローが、す——」  そこまで言って、ぴたりと動きが停止する。  そして、俺の手首を掴んでいる自分の右手を見つめた。  俺は唖然としながら、 「ゆ、結野さん……? ど、どうして……」  どうして、自らそんな暴挙を? 「あ、あああ、ああああ……」  結野の全身がぷるぷると震える。  そのあとは予想通り—— 「お、おおおおとこのここわいどすええぇえ————っっ!」 「なぜ京都弁でがばれっくすあぁ——っっ!」  結野の鉄拳が顔面に炸裂し、俺はよがりながら吹っ飛んだ。 「やあ、父さん。また会ったね」 「た、太郎!? どうしてまたここに——」 「あはは。どうしてだろう……俺にもわからないどすえ」 「……太郎。今日は、父さんとゆっくり語り合うか……」 「うん。あ、父さん、あそこにある広い川はなに?」 「あの川は絶対に渡っちゃダメだぞ、太郎」 第二話 失われたメモリー 「おぞましいほどに気持ち悪い、ドMのブタ野郎!」  と、恐ろしいほど傲慢な顔で言ったのは、もちろん石動美緒先輩だった。 「いい加減、あんたのドM体質をどげんかせんといかんっ! とゆーわけで、この美緒さまが、あんたの変態体質を治すためのとっても素晴らしい方法を考えてあげたわ!」  放課後。第二ボランティア部の部室である。石動先輩は部室の真ん中に立ち、両腕を組みながら、威圧感抜群の瞳で俺を見つめている。  ドM体質を治療する方法を思いついた。それをいまから実行する。これはもう何回も繰り返されてきたパターンだった。そしてその着地点は毎回同じで、最終的にはいつも俺が悲惨な目に遭う。はっきり言ってうんざりだった。 「今回あたしが考えたドM体質治療法。それは……」  そんな俺の心中などつゆ知らず、石動先輩は不敵にほほ笑みながら、 「それは——教育よっ!」  と、自信満々に言い放った。そして、メガネのツルを右手でくいっと上げる。  先輩は、なぜか紺色のスーツを着ていた。足には黒のハイヒール。 「うむ……美緒、素晴らしい着こなしだ。じつにいい……」  どこかうっとりとした口調でつぶやいたのは、変態保健医の鬼瓦みちる先生だった。先輩にスーツを着せたのは間違いなくみちる先生だろう。その隣にはクラスメイトである結野嵐子が立っている。 「きょ、教育?」 「そうよっ!」  石動先輩は言う。 「あんたのドM体質というものが、どんなに気持ち悪く醜く罪深いかということを、あんたの頭に知識として植え付けるの! その理性と知識の力によって、あんたの中にあるドMの本能を抑制するのよ!」 「…………」  相変わらず、よくわからない論理だった。  先輩は自分の胸に手を当てるような格好で、 「グレートティーチャー美緒さま……略してGTMであるこのあたしが、変態劣等生であるあんたに熱い教育を施してやるわ! 覚悟しなさい!」 「は、はあ……違う意味の覚悟は必要な気がしますが……」 「というわけで——起立っ!」 「いや、すでに立っているんですけど……」 「礼っ!」 「は、はい」  体をくの字に折り、とりあえず頭を下げておく。自分の身の安全のために。 「頭が——」  石動先輩の弾けるような声。 「高いのよっ!」 「おにばくっ!?」  後頭部に重い衝撃。その衝撃の勢いによって、俺の顔面は思いっきり床に叩きつけられてしまった。俺は土下座のような格好で顔を押さえながら、 「お、おおおっぱっぴぇー! しゅんごく痛いでやんす……はあ、はあ、はあ……」 「礼のときはもっと頭を下げなさいっ! 美緒先生さまに対して失礼でしょうが!」  重い衝撃の正体——それは、石動先生からいただいた踵落としでした。 「ほんっと、礼儀知らずの赤点ブタね! 変態性だけオール5で満足なの!? ああん!?」 「しゅ、しゅみまふぇん……」  先輩は傲慢そうに顎を反らすと、 「ふん、まあいいわ。じゃあ、これから授業を行うわよっ!」 「じゅ、授業?」 「そうよ。ドMがいかに反社会的で犯罪的なものか、あたしが考えた素晴らしい授業を通して教えてあげるわ!」 「…………」 「一時間目の授業は——国語よ!」  先輩は叫ぶように言った。  そして、奥の部屋から折りたたみ式の低いテーブルを持ってくる。それを俺の目の前に置いた。 「ブタロウ。そこに正座しなさい」 「え……あ、はい」  俺は言われた通り、そこに正座した。  先輩は、机の上にノートと鉛筆を置く。  俺を見下ろすと、 「ブタロウ。まずは国語の授業。書き取りからはじめるわ」 「書き取り?」 「そうよ。そのノートに、『ドMでごめんなさい』という文字を書くのよ。細かい文字で、びっしりとね。もちろん一文字一文字心を込めて」 「…………」 「なに呆けてやがんのよっ! オラ、さっさとはじめやがれ! モタモタしてると、鼻の穴にキュウリを突っ込むわよ!」 「は、はい!」  そんなことをされてはたまらない。俺はノートを開き、鉛筆を握った。  やれやれ、なんでこんなことを……  俺はこっそりとため息をついた。そして、新品のノートに『ドMでごめんなさい』という文字を書きつづっていく。  あまりにもアホらしい。が、いままでのドM治療法に比べたらわりと楽だなと思った。手は疲れるけど暴力的な要素はないし、ここは素直に従っておくほうが——  とか思っていたのだが。 「え……?」  いつの間にか、俺の隣に石動先輩が立っていた。  先輩は、両手で平べったい長方形の石を持っていた。  電話帳を一回り大きくしたような形の、かなり重そうな石だった。 「先輩、それは……」 「えいっ」  先輩は軽い感じで言うと、その重そうな石を俺の太ももの上に落とした。 「ニュ、ニュオオオオオオオ————ッッ!?」  な、なにすんの!? この人なにしちゃってるの!? 「ぎょえええ! あ、足が、足があああ……はあ、はあ、はあ……」 「こら、ブタロウ! 手が止まってるわよ! 書き取りを続けなさい!」 「そ、そそそ、そんなこと言われましても……」  平べったい石はメキメキと音を立てながら太ももに沈んでいく。こいつはかなりの責め苦だった。こんな状態で書き取りなんて……  俺は興奮に息を荒らげながら、なんとか鉛筆を握り、ノートに文字を書く。ド、ドMでごめんなさい、ドMでごめんなさい、ごめんなさい…… 「ほい、もう一つ」 「——っ!?」  どずんっ! と尋常じゃないほどの衝撃。  平べったい石が、もう一つ、追加されていた。 「オ、オオオオ! オオオオオオウ! オウオウオウウウウウッ!」  あ、ああ、気持ちいいよぉ……すんごくいい…… 「ブタロウ! 手が止まってるって言ってるでしょ!?」  先輩が怒鳴り声を張り上げる。 「理性と知識の力で、その責め苦を乗り越えなさいっ! それが教育の力っ! 知性の力よっ!」 「む、むりですぅ……もうむりですう……」 「がんばりなさいっ! あんたは腐ったミカンじゃないわ! 腐った変態だけど!」 「はひゅー、はひゅー、はひゅー……」  俺はドMの悦楽に全身を蝕まれながら、ぷるぷる震える文字で書き取りを続ける。 「おい、ブタ! なにやってんのよっ!? 書き取りの文字が『ドMでごめんなさい』から『卑しいブタをもっと痛めつけてください』に変わってるじゃない!?」 「は、はあ、はあ、はあ……」 「アホブタ! おまえは本当にダメな奴ねっ!」  石動先輩は苛ついた表情で、さらに石を追加した。  一つ、二つ、三つ……合計五つの石が太ももに乗っている。 「み、みちる先生……あれって、ただの拷問なんじゃあ……」 「ああ、そんな気がするな」  結野とみちる先生の声が聞こえた。そう、これはもはやただの拷問だ。で、でも、気持ちいいからもうオールオッケーだよぉ……  俺はあへあへと笑みを浮かべる。 「この、変態野郎がああ——っ!」  石動先輩はそう叫ぶと——  バッと飛翔し、俺の太ももに乗っている石の上に着地した。 「——ノオウウアウ!? バッハウ!? ベバッ!?」  さらに追加された人間一人分の重量。太ももが粉砕するかと思った。  いや、もういっそのこと粉砕してしまえばいい……はあ、はあ、はあ……  先輩は石の上で仁王立ちになり、両腕を組みながら俺を見下ろす。 「ほんっと、デキの悪いゴミ生徒ね。びっくりするほどキモいし。でも、美緒先生はあんたみたいなクズでも見捨てないわよ! だって、あたしはあんたの先生なんだから! さあ、あたしといっしょに夕日に向かって走りましょうっ!」  先輩がなんか言っているが、いまの俺にはどうでもよかった。  太ももにずっしりくる重しの責め苦と、目の前には黒いストッキングに包まれた先輩の脚線美。最高のシチュエーションだった。  さらには、少し視線を上げると…… 「はあ、はあ、はあ……み、水色……」 「えっ?」  先輩は怪訝そうな表情で俺を見つめる。 「水色が見えてましゅう……み、水色の——」  俺は気持ち悪い笑みを浮かべながら言った。  そう、いまの俺の目線の位置からは、丈の短いスカートから覗く水色の三角——先輩の下着がちょっとだけ見えちゃうのだった。 「な——」  石動先輩は一瞬で顔を真っ赤にすると、激怒の表情で、 「なに見てやがんだこのド変態がああああ————っっっ!」 「あびゃあああああああああ————っっ!」  俺の顔面に跳び膝蹴りをごちそうしてくれました。  すごい速度で吹っ飛ぶ俺の体。後頭部が部室の壁に激突する。  その瞬間、理性は死んだ。 「ウ、ハ! ウ、ハ! ウ、ハ! ウウ、ハ! スーパーアトミックファイヤー!」  醜いドMの本能を覚醒させた俺は、美緒先生にSM授業をしてもらうべく、人間性が破壊された笑みを浮かべながら先輩に向かって突進していった。  が、その途中—— 「ほひゅ?」  爪先が、なにかに引っかかった。  それは、さきほどまで俺の太ももに乗っかっていた石のうちの一つ。  その石に思いっきりつまずいた俺は、かなりの勢いで床に向かって倒れ込んだ。  そして、その目の前には——つまずいたものとはまた別の石。  ドMに目覚めていた俺に、受け身を取るなんて器用なことができるはずもなく。  俺は、床に転がっていた石に、顔面を思いっきり打ち付けた。 「——あだむっ!?」  意識が暗転。 「……ブ、ブタロウ」  おずおずとした声が聞こえた。 「ちょ——すんごい勢いで石に顔面をぶつけたみたいだけど、大丈夫なの?」 「タ、タロー!?」 「砂戸太郎。どうした?」  俺は—— 「う、うう……」  右手で額を触りながら、ゆっくりと体を起こした。  その瞬間、部屋にホッとしたような空気が満ちる。 「ふ、ふんっ! 大丈夫ならさっさと起きなさいよ! 何事かと思ったじゃない!」 「タロー……大丈夫? 頭、痛むの?」 「一応、保健室に行くか?」  三人の女性が、そんな声をかけてくる。  俺はぽかんとした顔で、彼女たちの顔を見つめた。  一人は、亜麻色の髪を長く伸ばした、驚くほど綺麗な顔の少女。  一人は、ショートカットに大きな瞳が印象的なかわいらしい女子。  一人は、長い髪を首の後ろで結った、長身の美女。 「あ、あの……」  俺は、彼女たちに向かって言った。 「あなたたちは……誰ですか?」  その瞬間。  三人の女性は、きょとんとした顔になった。  亜麻色の髪の少女が、 「あんた……それ、なんの冗談よ。まったくおもしろくないんだけど」 「タ、タロー……?」 「む……」  俺は困惑しながら、きょろきょろと辺りを見回す。  そこは——まったく見覚えのない場所だった。 「ここは……どこですか?」 「あんたねえ、いい加減に——」 「美緒、待て」  言って、長身の美女が俺のそばにかがみ込む。  俺の顔をじっと見つめると、 「自分の名前を言ってみろ」 「へ?」 「いいから。言ってみろ」 「自分の名前……俺の名前……」  俺は呆然とつぶやいた。  思い出せないのだ。自分の名前が思い出せない。 「わ、わからない……じ、じじ、自分の名前がわからない……」  俺は頭を抱えながら、つぶやいた。 「ふむ……」  長身の美女は立ち上がり、はっきりと言った。 「どうやら……砂戸太郎は、記憶喪失になってしまったようだな」 「き——記憶喪失!?」  俺の目の前にいる二人の女性が、声を揃えて言った。 「そ、そそそ、そんな……太郎さんが、記憶喪失なんて……」  と、顔を真っ青にしながらつぶやいたのは、俺の母親の砂戸智子——であるらしい。 「た、たた、太郎ちゃんは、わたしたちのことを忘れてしまったの……?」  と、母親と同じような顔で言ったのは、俺の姉の砂戸静香——であるらしい。  二人は相当なショックを受けているようだった。無理もない、家族が記憶喪失になったと聞かされたら、誰だって驚くだろう。と、俺は他人事《ひとごと》のように思った。  ——俺が記憶喪失だと判明したあと、保健医の先生の知り合いがいるという大きな病院で頭部を中心にした検査を受けた。  で、その検査の結果をとても簡単に言うと……  頭部への衝撃で記憶を失ったようだ。が、脳や肉体には異常が見つからない。どうすれば記憶が戻るのかわからないので、様子を見るしかない——とのこと。  検査が終わったあと、俺は結野嵐子という名前の女の子に案内され、自分の家に帰った。  その道すがら、結野さんから俺自身に関することを教えてもらった。  俺の名前が砂戸太郎であること。母親と姉の名前、父親はすでに亡くなっていること。自分は桜守高校の一年生で、結野さんはクラスメイトで同じ部活であること。所属している部活は第二ボランティア部で、その部長が石動美緒さん、部室によく来ている保健医が鬼瓦みちる先生であることなどなど…… 「た、たた、太郎さん。本当に、私たちのこと、忘れてしまったんですか……?」 「ひ、ひっぐ、うぇぐ……太郎ちゃあん、ウソだと言ってよぉ……」  母さんと姉貴——普段の俺はそう呼んでいたらしい——は、えぐえぐ涙目で俺を見つめてくる。  俺はなんだか申し訳ない気分になりながら、言った。 「え、えっと……うん、ごめん。なにも思い出せないんです……」  二人の表情がさらに酷いものになる。俺は慌てて、 「で、でも、心配しないでください! 医者の話だと、この記憶喪失は一時的なものらしくて、二、三日もすれば記憶はもとに戻るみたいなんです!」 「え……ほ、本当ですか?」 「本当なの、太郎ちゃん?」 「は、はいっ!」  完全に嘘だった。  でも、二人の悲しそうな顔を見ていると、こう言わずにはいられなかったのだ。理由はよくわからないけれど、二人が悲しそうにしているのは、なんだかすごく嫌だった。 「そうだったんですかぁ……それはよかったです……」 「うん、一安心だよぉ……」  二人は両手を胸に当て、ホッと安堵の息を漏らす。俺の言葉をまったく疑っていない様子だった。 「そうですか、記憶はすぐに戻るんですね……なるほど……」 「記憶は二、三日で戻る……うん、そっか……」  二人はなにやら怪しげな表情でつぶやいていた。  どうしたのだろう。俺は首をかしげながら二人を見つめた。  夕食を取り、風呂から上がったあと、俺は自分の部屋に向かった。 「…………」  ベッドに背中を預け、床の上に腰を下ろしながら、ゆっくりと部屋を見渡す。  どこもかしこも、まったく見覚えのないものばかり。ここが自分の部屋だと言われても、まるで実感が湧かなかった。  消したままのテレビの画面に、自分の顔が写りこんでいる。俺は自分の顔の頬を右手で撫でた。部屋と同じで、自分の顔にも馴染みがない。なんだか不思議な感覚だった。それと同時に、ああ、俺は本当に記憶喪失なんだなぁと実感した。  と、そのとき 「太郎ちゃあぁああ————んっ!」 「え、えええっ!?」  部屋のドアが突然開き、あどけない顔立ちをした小柄な女性——姉貴が俺の首に抱きついてきた。 「太郎ちゃん! 太郎ちゃん太郎ちゃん! だぁーい好きっ!」 「ちょ、ちょっと——」  姉貴は俺の胸にぐりぐり顔をこすりつけてくる。な、なんだこの唐突にはじまった過剰なスキンシップは!?  姉貴は、ほんのりと頬を染めながら俺を見上げ、 「太郎ちゃん……いつもの、はじめよっか……?」  と、なんか色っぽい声で言うと、着ていた服のボタンに手をかけた。そして、一番上のボタンから順番に外していき—— 「——って、なにやってるんですかっ!?」  俺は慌てて姉貴の両手を握り、ボタンを外すのを止めた。 「あんっ。太郎ちゃん、気が早すぎるよぉ。服を脱ぐのも待てないなんて……」 「な、なにを言ってるんですか!?」  俺は大声を上げる。 「あなたはどうして服を脱いだりなんか——」 「えっ? 太郎ちゃんこそなにを言ってるのかな?」  姉貴はきょとんとした顔で、 「お風呂上がりはお姉ちゃんと全裸でエッチぃことをする……それが太郎ちゃんの日課でしょ?」 「ぜ、全裸で!? エッチぃこと!?」  頭が爆発しそうな気分だった。 「そんなことするわけないじゃないですかっ! お、俺たちは血のつながった姉弟なんですよっ!?」 「それが逆に萌えるんだって、太郎ちゃんはいつも言ってたよ。わたしの体をべろんべろん舐め回しながら」 「な……」  俺は絶句した。 「あ……そっか、太郎ちゃんは記憶を失ってたんだっけ! わたし、そのことをついうっかり忘れちゃってたよ〜。てへっ」  言って、姉貴は自分の拳で自分の頭をこつんと叩いた。  俺は激しく困惑しながら、 「じょ、冗談はやめてください! さっきも言いましたが、俺たちは姉弟なんですよ!? そんな俺たちが……そ、その、全裸でエッチぃこととか、そういうことをするわけないじゃないですか!?」 「そんなことないよぉ。わたしたちはとっても愛し合ってたんだよっ」  姉貴はにっこりと笑う。 「証拠だってあるんだから! 太郎ちゃんがお姉ちゃんを大好きだという証拠が!」 「え?」  姉貴は俺のベッドの下に手を伸ばした。 「確かここに……あった!」  姉貴がベッドの下から取り出したもの——それは、平べったい箱だった。  その箱の蓋には『この箱あけるべからず 太郎』と書いてあった。 「これは……太郎ちゃんの秘密の箱……」  姉貴はなぜかもじもじしながら言う。 「この箱を開けてみればいいよ……自分の手で……」 「…………」  俺はごくりと唾を呑みこむ。この箱の中にはいったいなにが入っているのだろうか。  俺は緊張しながらその箱を開けた。 「ぬおう!?」  箱の中には——大量の写真が入っていた。  そのすべてが、姉貴の写真だった。 「それは、太郎ちゃんが盗撮した『お姉ちゃんコレクション』だよー」 「と、盗撮!?」  俺はそこにある写真をまじまじと見つめる。  お食事中のお姉ちゃん、パジャマ姿のお姉ちゃん、セーラー服姿のお姉ちゃん、スクール水着のお姉ちゃん、お風呂上がりのお姉ちゃん、下着姿のお姉ちゃん……た、確かに、これは完璧なお姉ちゃんコレクションだった。 「こ、ここここの写真を、俺が……?」 「うん、そうだよ〜」  姉貴はにぱっと笑いながら告げる。 「太郎ちゃんはね、お姉ちゃんへの熱い愛情を胸の中で処理することができず、お姉ちゃんの姿をずっと盗撮していたの。でも、こっそり盗撮するだけじゃあ我慢できなくなった太郎ちゃんは、あの日、お姉ちゃんのベッドに忍び込んで……ぽっ……」  姉貴は両手を頬にあてながら、いやんいやんと体を左右に振る。 「あれは……夢のような初夜だったよぉ……」  俺は愕然としながら、記憶を失う前の自分に向かって語りかけていた。  砂戸太郎。おい、砂戸太郎よ。おまえはいったいなにをしてるんだ? 血のつながった姉貴の姿を盗撮し、それだけじゃあ我慢できず……な、なんて変態野郎なんだ! 「は、犯罪だ……これは犯罪ですよ……」  そのとき——大声が響き渡った。 「静香さん! 太郎さんにウソを吹き込まないでくださいっ!」 「お、お母さん!?」  と、姉貴がびっくりした顔で言う。  部屋に入ってきたのは、俺の母さんだった。 「太郎さん、いまの話はウソです! まったくのデタラメです! だって——」  母さんは、俺の体をぎゅーっと抱きしめながら、 「だって、太郎さんが愛しているのは、この私だけなんですからっ!」 「え、ええええ!?」 「さあ、太郎さん! いつものように二人で肉欲に溺れましょう! エロエロナイトを楽しみましょう!」  俺はもう混乱の極みに達しながら、 「ちょ、ちょっと! あなたまでいったいなにを言ってるんですか!?」 「そうだよっ! 太郎ちゃんが愛してるのはわたしなんだよっ!?」 「証拠があります! 太郎さんの机の中に!」  言って、母さんは俺の机の一番下にある、大きな引き出しを開けた。  そこには、正方形の箱が入っていた。  引き出しから取り出されたその箱を開けると…… 「な、ななっ!?」  中に入っていたのは、なんだか怪しげな雑誌——タイトルは『週刊お母さん萌え』『月刊母乳まみれ』『母・即・犯』などなど……この本の持ち主は、完全にお母さんを性の対象として認識していた。  それだけではない。雑誌といっしょに、ブラジャーとパンツがたくさん入っている。こ、この下着はまさか…… 「それは……私の下着です。ぽっ」 「やっぱりぐはあああっ!」 「お母さんである私に欲情してしまった太郎さんは、私の下着を盗み出して——」 「メ、メチャクチャだよお母さん!」  と、姉貴が怒鳴り声を上げる。 「お母さん! 太郎ちゃんが記憶喪失だから自分に都合のいい記憶を植え付けようったって、そうはいかないんだからねっ!」 「その言葉、そっくりそのまま返しますよ! 静香さん、どうせあなたは太郎さんがお風呂に入っているあいだにその怪しげな箱をセッティングしたんでしょう!? そして大ウソで太郎さんを騙して——」 「まーったく、まーったく身に覚えのないことだよっ! というか、それはお母さんがやったことだよね!? 太郎ちゃんがババァの下着なんて盗むわけないよ!」 「盗みますよ! 毎日盗んでますよ! そして太郎さんは盗み出した私の下着に顔を埋めて——う、うう……」  急に、母さんが姉貴から離れた。  俺たちに背を向け、なんだか苦しそうに口元を押さえている。 「お母さん? どうしたの?」 「ど、どうしたんですか!? 気分でも……」  心配になった俺は、慌てて母さんに駆け寄った。 「大丈夫です。これは……」  母さんは苦しそうにしたまま、言った。 「これは——ただの、つわりですから」 「つ、つわり!?」  俺の声は裏返った。 「つわりって……に、妊娠してるんですか!?」 「ええ……」  母さんは潤んだような瞳で俺を見つめ、 「じつは私……太郎さんの子供をこの身に宿しているのです……」 「もげらっぷっ!?」  俺は口からなにかを吐き出した。  に、妊娠……俺の子供を、妊娠…… 「マ、マジですか……」  母親を孕ませるなんて……砂戸太郎、おまえはそこまで鬼畜だったのか…… 「お母さん、ふざけたことを——だ、だったら、わたしも言っちゃうんだから!」  姉貴は胸の前で両拳を握り、 「わたしも、太郎ちゃんの子供を、身ごもっちゃいましたっ! イェイ!」 「げぶっくすっ!?」  俺は再び口からなにかを吐き出した。血だったかもしれない。 「静香さん! ウソをつかないでください!」 「ウソじゃないもん! あー、すっぱいものが食べたいすっぱいものが食べたい!」 「こ、この……うえ、ぐへ、あーつわりが苦しいです! 妊娠はつらいです!」 「すっぱいもの! すっぱいものプリーズ! レモン百個もってこーいっ!」 「ぐ、ぐばああああ!? つわりが悪化して吐血しそうですうっ!」  俺は呆然とつぶやく。 「は、母親だけではなく、姉まで……な、ななな、なんてことを……」  ま、まさか……記憶を失う前の俺が、近親相姦大好きな超絶変態野郎だったなんて……そんなことって……  俺は部屋の隅で膝を抱えながら、ガクガクブルブル震えていた。  翌日。  俺は学校に向かうため、玄関を出た。寒風が俺の体と心を責め立てる。 「はあ……」  思わず、ため息を漏らす。  昨日はほとんど眠れなかった。それは、記憶を失ったことに対する不安からではない。  記憶を失う前の自分が、血のつながった姉と母親を性の対象と見なすような、最低最悪の鬼畜野郎だと知ってしまったことが原因だった。  しかも、二人揃って妊娠させるなんて…… 「お、俺は、なんて奴だったんだ……」  激しく苦悩する。どうすればこの罪を償うことができるのだろうか。  と—— 「タ、タロー……」  おずおずと、俺を呼びかける声。  うつむき加減だった顔を上げる。  玄関から少し離れたところに、ショートカットの女の子が立っていた。寒さのためかちょっと鼻の頭を赤くしながら、俺のほうを見つめている。 「あ……ゆ、結野さん」  そう俺が言うと、彼女は少しだけ悲しそうな顔をして、 「やっぱり……まだ、記憶は戻ってないんだ……」 「す、すみません」 「あやまらないで。タローが悪いわけじゃないんだから」  言って、結野さんは優しげにほほ笑む。  俺はその綺麗な笑顔にちょっぴりドキッとしながら、 「あ、あの……結野さんは、どうして俺の家の前に?」 「えっと……」  結野さんは照れたように顔を赤くし、俺から目を逸らしてうつむきながら、 「記憶喪失だったら、学校への道筋とかも忘れちゃってるだろうって思って……」 「あ……」  確かに、いまの俺は学校への道筋がよくわからない。昨日は病院を挟んで帰宅したので、学校への純粋な道筋というのはまったく不明だった。 「それで、わざわざ迎えに来てくれたんですか?」 「う、うん」  結野さんはこくりとうなずき、どこか遠慮がちに俺を見つめてくる。 「迷惑……だったかな?」 「とんでもないです!」  俺はぶんぶんと首を左右に振る。 「とても助かりました! ありがとうございます!」  と、告げると、結野さんはホッとしたような笑みを浮かべた。 「じゃあ……いこっか」 「は、はい!」  俺と結野さんは、肩を並べて歩き出す。  そのとき、結野さんは、俺の肩の位置を見て微妙にだが俺との距離を開けた。ちょっと不自然な動きだったので、俺は首をかしげた。  自宅からすぐ近くにある駅から電車に乗り、十五分ほど揺られる。そして、桜守駅というところで下りる。 「ここから、ずっとまっすぐ歩いていったら着くから」 「あ、はい。わかりました」  幅の広い道を歩いていく。  俺は、隣を歩く結野さんをぼんやりと見つめる。  肌がとても白くて綺麗だった。長い睫毛に、陽光を反射してきらきら輝く大きな瞳。微かに吹いた風が、彼女の細い髪を揺らす。  結野さんは、すごくかわいい女の子だった。  思わず見とれてしまうくらいに、かわいらしい顔立ちをしている。  俺の視線に気づいた結野さんが、細い首をかしげながら俺を見上げてくる。 「ん? なに?」  何気ない仕草が、とてもかわいい。そう思った。 「い、いえ……」  俺は慌てて顔を逸らす。 「あの……結野さんは、俺とどんな関係だったんですか?」 「え?」 「いや、深い意味はないんですが……」  俺はぽりぽり頬をかきながら、 「結野さんは、俺にとても優しくしてくれるから……昨日だってすごく心配してくれてたし、今日だってわざわざ家まで迎えに来てくれて……」  俺と結野さんはクラスメイトらしい。同じ部活でもあるらしい。でも、それだけでこんなに親切にしてくれるものなのだろうか。  結野さんは—— 「ど、どんな関係って、べつに……」  なぜか顔を真っ赤にし、うつむいてしまった。  その表情を見た俺は、ハッと気づき、 「もしかして……」 「な、なに?」 「もしかして——俺と結野さんは、恋人どうしだったんじゃないですか?」 「こ、こいびと!?」  結野さんの声は見事に裏返っていた。 「そ、そそそ、そんな、恋人どうしなんひャウって……」  さらには、見事に噛んでいた。 「あ……違うんですか。す、すみません、想像で勝手なことを言ってしまって」 「…………」  結野さんは、ぐいーっと俺から顔を逸らすと、 「……ちがくない」  ぽつりと言った。 「え?」 「わ、わたしとタローは……恋人どうし、ダッタノデス……」  明後日の方向を見つめるようにして、結野さんは言った。耳の先まで真っ赤になっている。 「やっぱり! やっぱりそうだったんですか!」  俺は声を弾ませた。自分にこんなかわいい彼女がいたなんて……それは、とても喜ばしいことに思えた。 「ああ……神様ごめんなさい、嵐子はすんごいウソをついてしまいました……」  結野さんが天に向かってなにやらつぶやいていたが、あまりに小さな声だったのでなにを言っているのかはわからなかった。 「ん……待てよ……」  俺はそこで思い出した。思い出したくないことだったのに、思い出してしまった。  俺は——姉と母を孕ませた、鬼畜野郎だったのだ。 「え、あれ……?」  結野さんは俺の恋人。でも俺は姉と母と愛し合っていた。  つまり。  俺は姉と母と深い関係にありながら、結野さんにまで手を出した……?  二人だけじゃ満足できず、結野さんまで手込めに…… 「な、なな、なんて奴だ……」  俺は頭を抱えながらつぶやく。  砂戸太郎。おい、砂戸太郎よ。おまえは姉と母の肉体だけでは満足できず、こんなに優しい結野さんにまで手を出したのか? そんな異常性欲の持ち主だったのか?  いや、手を出しただけではなく、もしかして——  俺は弾かれたように結野さんに顔を向け、 「結野さん!」 「は、はひっ!?」  結野さんはびっくりしたような顔でこちらを向く。 「結野さん、あなた……」  俺は真剣な顔で言った。 「妊娠——してませんか?」 「に、ににに、ににににに、妊娠っ!?」 「そうです。おなかの中に、俺の子供を宿していませんか?」 「タ、タタタ、タローの、ここここ、こども!?」  結野さんは病的なほど顔を真っ赤に染め、手足をぱたぱた振りながら、あうあうと意味不明なことを言っている。  砂戸太郎は、自分の姉と母を孕ますようなエロエロ最低人間だ。  そんな最低な奴が、結野さんだけを妊娠させていないとは考えられない。だから、結野さんはきっと妊娠しているはず。俺の子供を宿しているはず。 「どうなんですか、結野さん! 正直に言ってください! 結野さんは妊娠してるんじゃないんですか!?」 「しょ、正直にって……」  結野さんは、 「に、にににに——にんしんなんて、そんなアレはまだえっとうああああんっ!」  顔を真っ赤にしたまま瞳を潤ませ、弾丸のような速さで俺のもとから去っていった。  俺は、遠くなっていく結野さんの背中を見つめながら、 「あの反応……やっぱり、妊娠してるんだな……」  ぽつりとつぶやいた。  桜守高校にたどり着く。俺は校門をくぐった。  少し苦労したが、なんとか自分の教室を見つけることができた。  教室に入る。  当然のことだが、見覚えのない顔ばかり。なんだか不安になった。 「というか……俺の席ってどこだろう……」  きょろきょろ教室内を見回す。と、後ろのほうの席に、結野さんが座っている姿を見つけた。  彼女は俺と目が合うと、顔を赤くしながら素早く目を逸らした。  ……まだ高校一年生だというのに妊娠してしまった結野さん。そんな彼女の苦悩を思うと心が痛んだ。しかも、妊娠させた相手は記憶喪失。さらに結野さんが知っているかどうかはわからないが、俺はじつの姉と母にまで手を出している。つまり三股をかけているのだ。 「最低だ……マジで最低だよ、砂戸太郎……」  俺が教室の扉近くで鬱になっていると—— 「た、太郎!」  髪を金色に染めた小柄な男子が、血相を変えて俺のところに駆け寄ってきた。 「さっき廊下でみちる先生に会って、おまえのこと聞いたんだけど……」  金髪の男子は俺を見上げ、 「おまえ——記憶喪失になったって、本当か?」 「え、えっと……はい、そうらしいです」  と、俺はうなずく。 「あの、あなたは……」 「俺は……葉山辰吉。おまえの親友だ」 「親友……」 「ああ」  葉山くんは俺をまっすぐ見つめ、力強くうなずいた。 「体は大丈夫なのか? 痛むところとかはないのか?」 「は、はい。それは大丈夫です」 「そっか……」  葉山くんは安心したような笑みを浮かべた。 「太郎。記憶を失っていろいろ困ったりつらかったりするだろうけど、なんかあったらいつでも俺を頼ってくれよ。記憶がなくても、俺がおまえの親友ってことに変わりはないから」 「葉山くん……」  彼は、心から俺のことを心配してくれている——それが痛いほどわかった。 「あ、ありがとう」  砂戸太郎。おまえにはこんなに素晴らしい親友がいたんだな。  うれしかったり感動したりした俺は、思わず葉山くんの両手をぎゅっと握った。 「本当にありがとう、葉山くん」 「水くさいこと言うなって。俺とおまえの仲だろうが」  にかっと人なつっこい笑顔で応えてくれる。  俺がなんだか泣きそうになっていると—— 「チョワアアア————ッッ!」  唐突に振り下ろされた手刀が、握り合っていた俺と葉山くんの手を寸断した。 「え……?」  手刀を振り下ろした格好で、睨むように俺を見上げているのは、長い髪をツインテールにした女子だった。 「ゆ、由美。いったいなにを……」  と、葉山くんが困惑した顔でつぶやく。  由美と呼ばれた少女は、静かに上半身を起こし、両腕を組むと、 「わたしの辰吉くんに気安く触らないでくれる? なんだか、嫌なデジャブを感じたんだけど……」  いきなり出てきてよくわからないことを言う少女。  どうやら、彼女も砂戸太郎の知り合いらしい。結野さんや葉山くんと違い、俺が記憶喪失だということを知らない様子だが……  いや、そんなことより—— 「こ、これは、なんだ……?」  女子に手刀を落とされじんじんと微かに痛む俺の両手。その両手から、なにやら痛み以外の感情が全身に広がっていた。それは痛みとは別種の、というか真逆の……い、いったいこの変な感覚は…… 「由美、デジャブってなんだよ!?」  という葉山くんの声に、俺はハッと我に返った。 「砂戸くんが辰吉くんの手を握る姿を見て、桜守祭のときのことを思い出したの」  由美さんは葉山くんに言ってから、ジト目で一歩俺に近づき、 「あなた……もしかして、またBL属性になったんじゃないでしょうね?」 「え?」  BL属性?  それはどういうことだ? 「とぼけないでよ。桜守祭のとき変態BL野郎になったあなたは、わたしの辰吉くんに欲情して、教室で人目もはばからず抱きついたり、劇の最中に押し倒したりしたじゃない」 「な……」 「はあはあ息を荒らげながら『辰吉、大好きだ、愛してる』とか言っちゃって……あのときのあなたは、殺したくなるほど気持ち悪かったわ」 「そ、そんな……」  俺はバッと葉山くんのほうに向き直る。 「は、葉山くん! いま彼女が言ったことは本当ですか!?」 「へ? えーっと……」  葉山くんは——  スッと俺から目を逸らした。 「…………っ!」  本当なのだ。  彼女の言っていることは、まごうことなき真実なのだ。 「で、でも、あのときのおまえは、催眠術で変になってたから——お、おおーい、聞いてるか?」 「なんて……なんてことだ……」  俺は両手を見下ろすような格好で、ガクガク震えていた。  俺は、姉と母との危険な関係に溺れ、結野さんまで手込めにし、さらには親友の男子にまで手を出していたとは……な、なんてストライクゾーンの広い奴なんだ。牽制球でもホームランにしそうな勢いだ。  俺は記憶を失う前の自分に語りかける。砂戸太郎。おい、砂戸太郎よ。いくらなんでもホモというのはやばくないか? おまえの性的な好奇心はとどまることを知らないのか? 「はあ、はあ、はあ、くほぉ、くう……」  俺はぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。砂戸太郎——つまり自分自身のあまりに変態的な一面を知ってしまい、もう気が狂いそうだった。 「た、太郎……大丈夫か?」  言って、葉山くんは俺の肩に手を置く。  俺はビクッとなった。そして、 「お、おおお、俺に触らないでくれええええ————っっ!」  泣き叫びながら、教室から逃げ出した。 「う、うう……」  俺は絶望的な気分を抱えたまま、廊下をとぼとぼ歩く。  なんだか気持ち悪くて、吐きそうだった。 「こんな状態じゃあ、とても授業なんか受けられないな……」  つぶやき、ため息をつく。 「保健室で寝ていよう……」  校舎を歩き回り、保健室を探す。 「あ……ここだ」  俺は保健室の扉を開け、中に入った。  保健室の机には、白衣を着た女性が座っていた。扉が開いた気配に気づいたのか、その女性は椅子を回転させ、こちらを向いた。 「あ……」  彼女には見覚えがあった。昨日、第二ボランティア部の部室にいた女性。確か……鬼瓦みちる先生だ。  彼女は俺の姿を見ると、少しだけ眉を上げ、 「砂戸太郎ではないか。どうした?」 「あ、えっと鬼瓦先生……俺、ちょっと気分が悪いので……」 「みちる先生だ」 「へ?」 「私は名字で呼ばれるのが好きではないんだ。だから、みちる先生と呼んでくれ。というか呼べ」 「は、はあ、わかりました……」 「で、なんだ?」 「あ、ああ、ちょっと気分が悪いので、休ませてもらおうと思って……」 「頭が痛むのか?」 「いえ、そういうわけではないのですが……」 「ふむ」  扉の近くで突っ立っているのもどうかと思い、俺はみちる先生のいるほうに歩いていった。  みちる先生は椅子に座ったまま、俺を見上げる。綺麗な切れ長の瞳。みちる先生はかなりの美女なので、俺は少しドキドキしてしまった。  彼女は観察するように俺を見つめると、 「どうやら、記憶はまだ戻っていないようだな」 「は、はい」 「そうか」  と、抑揚のない口調で告げる。表情もあまり変わらなかった。 「休みたいなら、勝手に好きなだけ休んでいくといい。私はいま忙しいんだよ」 「い、忙しいって……」  この人、保健医のくせに、保健室に来た生徒にまったく無関心……  俺が呆然としていると、 「なんだ? 休まないのか? では作業の邪魔だから出ていってくれ」 「出ていってくれ……」  な、なんて冷たい態度だ。とても保健医の対応とは思えない。 「そ、そんなこと言うのは酷すぎるんじゃ……はあ、はあ、はあ……」  そのとき——俺の全身はなんか卑猥な感じのするとろとろした熱に覆われていた。  こ、これは……!  俺は自分の肉体を襲った不可解な感覚に混乱していた。ちょっと取り乱してもいた。みちる先生はそんな俺のことなんかどうでもいい感じで、机のほうに体を戻す。  俺はぶんぶんと頭を横に振る。不可解な感覚を振り払うように。  い、いまのはいったい……なんなんだ?  みちる先生は机に向かってなにかの作業をしているようだった。俺は何気なく机の上を見た。  机の上には無数の写真が置いてあり、かなり散らかっていた。  俺の視線に気づいたみちる先生は、 「これまで撮った写真を整理していたんだよ。人物やジャンルに分けて」 「はあ、そうですか……」  写真には、昨日部室にいた石動美緒先輩、結野さん、さっき教室で会った由美という名前の女子などが写っていた。見覚えのない顔も多い。どれも女子ばかりで、それもかなりの美少女揃いだった。なんか、ちょっとエロい感じの写真もある。 「ん……?」  俺の視線は、とある写真に吸い寄せられていた。  そこには、黒い髪をポニーテールにした女の子が写っている。  写真の中の彼女は、もじもじと恥ずかしそうにしているように見えた。  どうしてだろう。俺は、そこに写っている少女に見覚えがあるような気がした。 「ああ、これか」  俺の視線に気づいたみちる先生が、その写真を掲げる。 「なかなかよく撮れているだろう? 私のお気に入りの一枚だ」 「あの……そこに写っているのは誰ですか? なんだか見覚えがあるような気がするんですけど……」  言うと、みちる先生は俺を見つめ、 「君だよ」 「ほへ?」 「ここに写っているのは、君だ」 「なにを言ってるんですか、みちる先生」  冗談だと思ったので、俺は軽く笑った。 「これは間違いなく君だよ。女装した君だ」 「……え?」 「いまの君は覚えていないだろうが、君は女装したことがあるんだ。よく見てみろ」  俺は写真を手に取り、それを凝視する。 「…………」  一見しただけではわからない。が、注意深く凝視すればわかる。ここに写っているのは、俺の顔だった。テレビの画面に映りこんでいた自分の顔だった。  俺は愕然としながら、 「お、おおお、俺は女装なんてしてたんですか!?」 「ああ、そうだよ」  女装……女装趣味…… 「そ、そうですか……あは、あはは……」 「砂戸太郎。どこへ行くんだ?」 「あはは、あはははは……」  俺は壊れた笑みを浮かべながら、ふらふらと保健室を出た。  さまようように歩いた先、俺がたどり着いた場所は——  第二ボランティア部の部室だった。  授業中なのでもちろん部室は無人。俺は部室で三角座りしながら、両手で頭を抱えていた。 「はあ、はあ、はあ、はあ……」  全身がガクガクと震え、両目は完全に血走っている。寒気が止まらなかった。 「姉と母、結野さんを妊娠させた変態色情魔……さらには親友にまで襲いかかるBL野郎……それだけではなく、女装趣味まで……」  記憶を失う前の俺は、とんでもない変態野郎だった。  なんというか、常軌を逸している。頭がおかしいとしか思えない。 「俺は……俺は、なんて悲惨な奴なんだ……」  怖い。なんか怖い。変態すぎる自分が怖い。  どれだけのあいだ、そこで震えていただろうか——  部室の扉が、ゆっくりと開いた。  顔を上げる。 「……ブタロウ?」  そこに立っていたのは、亜麻色の髪を長く伸ばした美しい少女。  確かこの人は……そう、昨日この部室にいた人だ。この第二ボランティア部の部長をしているという、石動美緒先輩——  石動先輩は首をかしげながら、 「あんた、そんなところでなにやってるのよ?」 「え、えっと……」  おどおどとつぶやきながら、部室の壁に掛けられている時計を見やる。いつの間にか放課後になっていた。  とゆーか……ブタロウって俺のことか? 変な呼び名だ。まるで、ブタと俺の名前を組み合わせたみたいじゃないか。いや、実際そんなことないとは思うけど……でも、なぜか心地よさを感じる呼び名だった。  先輩は俺に近づいてくる。 「あ……そういえば、あんたって記憶喪失になっちゃってたのよね。まだ記憶は戻らないの?」 「は、はい」 「……ふうん。あ、そう」  先輩はつまらなそうに言う。なんか、少しだけ苛ついているように見えた。 「まだ、思い出してないのか……」  俺は、石動先輩の姿を見上げる。  改めて見ると——彼女は、信じられないくらい綺麗な少女だった。  やわらかく背中に落ちる亜麻色の髪に、宝石のように美しい二重の瞳。きらめくような真っ白な肌、スッと通った鼻筋、麗しい桜色の小さな唇。そこらにいる少女たちとはまるで別物、特注品、あり得ないほどの完璧美少女だった。 「あ? なにじろじろ見てやがんのよ?」 「い、いえ、すみません!」  俺は慌てて顔を逸らす。 「…………」  石動先輩はやはり苛ついた表情で俺を見下ろしていた。  先輩はふんっと鼻を鳴らし——  俺の襟元を乱暴に掴んだ。 「へ?」  と、俺は困惑する。  先輩は凄みのある顔を近づけてくる。  しばらく無言で目を合わせ続けた。俺は美少女の顔が目の前にあることに、ちょっとドキドキしちゃっていた。  やがて、 「……ブタロウのくせに」  ぽつりと言葉を落とす。 「え?」 「あんたは、あたしの下僕みたいなもんのくせに、なんでこの美緒さまのことまで忘れやがってんのよ。あたしの許可なく」 「そ、そんなこと言われましても……」 「思い出しなさい。あたしのことだけでもいいから」 「む、無理です……お、思い出せません……」 「…………」  先輩の眼光がさらに鋭さを増す。  その眼光に見据えられていると——  なぜか、俺の背中がぞくりとした。  あ、あれ? いまの感覚はなんだろう?  怖い……というのとは少し違う。なんか、ちょっとだけ気持ちよかったような……  そう、これは、あのときの感覚と同じだ。由美とかいう少女に手刀で打たれたときに感じた、そしてみちる先生に冷たくあしらわれたときに感じた、あの感覚と……  先輩は俺から目を逸らすと、口を尖らせるようにして、 「……なんなのよ。なんか、すげえムカつくわ。あたし、なんでこんなに……」  つぶやくように言った。 「まあいいわ」  長い髪をかき上げ、 「このままだとめんどくさいから——あんたの記憶喪失、あたしが治してやるわ」 「え……な、治せるんですか?」 「当然! 神様であるこのあたしに不可能はないわ!」 「か、神様?」 「そうよっ!」  えっへんと薄い胸を張る。 「…………」  神様って……この人はなにを言っているんだ? わけがわからない。  自分のことを神様とか言うなんて、ちょっと怖い。この人はいろんな意味で大丈夫だろうか?  まあ、とりあえず、その部分はスルーしておいて—— 「記憶喪失を治すって……いったいどういう方法で治すんですか?」 「あんたの中にある思い出を刺激してやるのよ。そうすればきっと、あんたはこれまでのことを思い出すわ」  言って、先輩は颯爽と奥の部屋に向かった。思い出を刺激?  先輩が部屋から出てくる。 「な……」  俺は呆然と先輩の姿を見つめた。  先輩は——なぜか、メイド服に着替えていた。  しかも、背中には硬球がたくさん入ったカゴを背負い、右手には金属バットを握っている。かなり不自然で異様なスタイルだった。 「せ、先輩、その格好はいったい……」 「どう? 思い出した?」 「思い出したと言われましても……」 「ちっ。まだ思い出さないのね。しょうがないわ」  つぶやくと、先輩はカゴから硬球を一つ取りだした。それを左手に持ち、軽く上に放り投げる。同時にバットを構える。そして。  思いっきり、一片の容赦もなく、バットをフルスイングした。 「——っ!?」  轟音を立てながら迫り来る硬球が——  俺の顔面にメガヒットした。 「あけぼおのっ!?」  すごい勢いで後方に吹っ飛ぶ。そして、後頭部で床をスライディングした。  い、痛い。すんごく痛い。  でも…… 「あ、あああ、あああああ……はあ、はあ、はあ……」  激痛と同時に——全身を襲うすさまじい悦楽。 「な、なんだこれ!? はあ、はあ、はあ、はあはあはあはあ……!」  あひぃ、あひぃ、とうめきながら床をごろごろ転がる。困惑しながら転がる。 「す、すんごい痛いのに! 死ぬほど痛いのに! で、でも、あり得ないほど気持ちいいいいいいっ! なんなのこれ!? なんなんだよこれ!?」  自然と笑みが浮かんでしまう。壊れた笑みが。 「うひぃひぃいぃ! わ、わけがわからない! 痛いのに気持ちいいってどういうことれすかぁ!? ボ、ボボボ、ボクちゃんの体はどうなっちゃったノォオオォ——ッ!?」  理解不能な快楽に身悶える俺を、石動先輩はジト目で見下ろし、 「あんた……いまさらなに言ってるのよ」 「は、はひゃ?」 「痛いことされて気持ちよくなるなんて、あんたにとってはいつものことじゃない」 「……?」  せ、先輩はなにを言ってるんだ?  痛いことされて気持ちよくなるなんて……そんなのは普通の感覚じゃない。でも間違いなくキモチイイイイイ——ッ! なんでですか!? ホワイ!?  俺は土下座のような格好で先輩を見上げながら、 「な、なにを言ってるんですか……痛いのが気持ちいいなんて、それじゃあ俺はまるでマゾヒストじゃないですか!?」 「え? そうだけど?」  先輩は当然のように言った。 「……へ?」 「あんたは、女性から罵られたり冷たくされたり殴られたりしたら気持ちよくなっちゃう、筋金入りのドM野郎なのよ。史上最悪の変態ブタ人間なのよ。気づいてなかったの?」 「あ、あああ、ああ……」  俺は——マゾヒストなのか?  痛いのが気持ちいいという、とても残念な属性を持った人間なのか? 「そ、そんな……そんなああああっ!」 「ふんっ。そんな基本的なことまで忘れてたとは。呆れた変態ね」  と、先輩はため息をつく。  俺は頭蓋骨を粉砕しそうな勢いで頭を鷲づかみにしながら、 「さ、ささ、砂戸太郎という人間は……」  震える声でつぶやく。 「砂戸太郎という人間は……姉貴の姿を盗撮し、母親の下着を盗み、それだけでは満足できず二人と近親相姦的な肉体関係を結んで妊娠させ、ありあまった性欲によって恋人の結野さんをも妊娠させ、親友とはガチのBL関係になり、さらには女装趣味までたしなみ……そ、そして……」  愕然と、言い放った。 「そして……最後のトドメはマゾヒズム……」  ドMの変態野郎ということです。 「う、うわあ……うわあああ……」  すごい。我ながらすごい。  記憶を失う前の俺は……究極のド変態人間だったのだ。 「どうやら……」  石動先輩は、金属バットを肩に担ぎながら、 「まだ記憶は戻っていないようね。……やっぱり、硬球をぶつけたのが顔面なのがいけなかったのかしら。前と同じく、股間にぶつけないとダメね」 「こ、股間に硬球を……?」  前と同じく……つまり、俺は先輩にそういうことをされたことがあるというのだろうか。  先輩はそのときの記憶を刺激し、俺の記憶喪失を治そうとしている……らしい。  先輩は硬球をカゴから出しながら、 「じゃあ、今度は股間を狙うわよ」 「あ、あああ……はあ、はあ、はあ……」  喰らいたい。美少女が打った硬球を股間に喰らいたい。 「——って、そんなの喰らったら死んじゃうだろうが!」  意識の最奥から囁いてくる変態的な声を強引に無視し、俺は立ち上がった。  全速力で部室から飛び出す。 「逃がすかぁあぁああ——っっ!」  背後から、硬球が雨あられと降り注いでくる。俺はなんとかそれを避け、走り続けた。 「待ちやがれええええ!」 「ひ、ひい——っ!」  俺は泣きそうになりながら走った。  人が多い場所なら、先輩も無茶なことはできないはず。  そう思った俺は、校舎の中に逃げ込むことにした。下駄箱から廊下に進む。  これで一安心……とはいかなかった。 「おらあああっ!」 「ぎょえええ!?」  素晴らしい速度で飛んできた硬球が、俺の体のすぐそばを通り、その先にあった窓ガラスを粉砕した。 「せ、せせ、先輩! ここは校舎の中なんですよ!?」 「そんなこと知るかぁ!」  ダメだ。この人は狂っている。  そして俺も—— 「ひょええ……はあ、はあ、はあ……」  石動先輩から逃げなくてはならないと思う心と、先輩の硬球を味わいたいと思う心が、俺の体内で激しく対立していた。  ああ、あの硬球を股間に喰らったら、とっても気持ちいいだろうなぁ……はあ、はあ、はあ…… 「うぅ……お、俺も狂ってやがる……」  だが、ここで自分から先輩の硬球を喰らいにいったりしたら、俺は完全無欠の変態になってしまう。そう思った。  だから、俺は絶対に先輩から逃げ切ってやる。  どうしようもない変態野郎、砂戸太郎に一矢を報いてやるんだ。  廊下を全速力で走り抜ける。  男の俺が全速力で走っているのに、先輩を振り切ることができなかった。先輩はあの装備を背負いながら、そして硬球を打ち出しながらだというのに。あの小柄な体躯で、なんて超人的な人なんだ。  先輩は硬球でいろんなものを破壊しながら、そして廊下を歩いていた生徒たちに恐怖をまき散らしながら——「美緒たんメイド萌え!」「美緒さまハァハァ!」とか恐怖以外の感情を抱いている奴らもいたようだが——俺を追いかける。俺は逃げる。  と——  俺が進む前方に一人の生徒が立っていた。  立ちはだかっている……というわけでもないが、冷静な面持ちで観察するようにこちらを見つめている。  艶のある黒髪をショートカットにした、長身で落ち着いた雰囲気を身に纏う少女だった。廊下の隅に避難していた生徒が彼女に向かって「生徒会長、危険ですよ!」と叫んでいるのが聞こえた。  その声が聞こえているのかいないのか、彼女は両腕を組みながら余裕の笑みを浮かべ、 「美緒さま。またやりたい放題だね」  と、どこか揶揄するような響きで言った。 「本当にやれやれだよ。——でも、それはたぶん以前のあなたおぶっ」  彼女の声が途中で止まる。  それは、石動先輩の打った硬球が彼女の顔面にぶち当たったからだった。  運悪く流れ弾を喰らってしまった長身の少女は、無言でばたんと廊下に倒れた。  あんなところに立ってるから……そんなことを思いながら、俺は倒れた彼女の横を走り抜ける。先輩の目には流れ弾の被害者などまったく映っていないのだろう、相変わらずの必死な形相で俺を追いかけていた。  背後で、さっき彼女に声をかけていた生徒が、「せ、せいとかいちょおおお!」と悲痛な叫びを上げていた。  そして。 「ふふ……ついに追いつめたわよ……」 「はあ、はあ、はあ……」  そこは——焼却炉の前だった。  先輩は金属バットをまっすぐ俺のほうに伸ばし、邪悪な笑みを浮かべている。 「では……」  先輩は背負っているカゴに手を入れ「あれ?」という顔をする。カゴの中にはもう硬球は残っていなかったのだ。 「ちっ。しょうがないわね」  カゴを放り捨て、言う。 「硬球がなくなったから……この金属バットで股間をぶっ叩くことにするわ」 「え、ええっ!?」  俺は慌てて叫んだ。 「そんなことをされたらマジで死んでしまいます! な、なんとかやめてもらうわけにはいきませんか!?」  そう言うと—— 「…………」  石動先輩はバットを下ろし、しばらく黙りこんだ。  じっと俺を見つめる。俺はおどおどしながら先輩を見つめ返していた。  やがて、 「……なんなのよ」 「え?」 「そんな、他人を見るような目で見やがって。ムカつくのよ。なんか……すっげえムカつくのよ……」  先輩は俺から目を逸らし、独り言のようにつぶやいた。 「せ、先輩?」  どうしたのだろう。そのときの先輩の瞳には、微かに寂しげな色が映りこんでいるように見えた。 「とゆーわけで——覚悟!」 「とゆーわけってどういうことですか!?」  先輩がバットを振り上げたとき—— 「や、やめてくださいっ!」  そんな声が響いた。 「美緒さん、やめてください!」  結野さんだった。その後ろにはみちる先生もいる。  結野さんは俺と先輩のあいだに立ちふさがり、 「タローは病人なんですよ!? そんなタローに酷いことするのはやめてください!」 「ひどいことじゃないわよ! あたしは、こいつの記憶を思い出させてやろうとしてるのよ! 股間に衝撃を与えて!」 「こ、股間に!? そ、そそそ、その方法は危険すぎますっ!」 「うるさい! 嵐子、そこをどくのよ!」 「どきません! 絶対に!」  結野さんは決死の表情で先輩を見つめている。  石動先輩も真正面からそれに対峙する。 「…………」 「…………」  無言の鍔迫り合いが、場の雰囲気を鋭くする。  そして、 「美緒さんは……」  結野さんは、睨むように先輩を見ながら、言った。 「美緒さんは……タローのことをどう思ってるんですか?」  先輩は驚いた顔で、 「ど、どう思ってる? 突然なんなのよ?」 「……最近の美緒さんは、ちょっと変です。うまく言えないんですけど、タローへの態度が前までとはちょっと違います」 「そ、そんなこと——」 「わ、わわ、わたしはっ!」  勢いに身を任せてしまえ——結野さんはなんだかそんな感じで、叫んだ。 「わたしは——タローのことが好きですっ!」 「は、はひゅ!?」  先輩は普段より一オクターブほど高い、素っ頓狂な声を上げた。 「あ、嵐子、あんた急になに言ってんのよ!?」  結野さんは煙が出そうなほど顔を真っ赤にしながら、ぐっと前のめりになり、 「わたしは正直な気持ちを言いましたっ! 次は美緒さんの番ですよ!」 「あ、あたしは、ブタロウのことなんかなんとも思ってないわよ!」 「本当に? 本当に、そうなんですか!?」 「ほ、ほんとよ! 当たり前じゃない!」  大声を弾けさせたあと、石動先輩はうつむき加減で囁くように、 「あたしは……ブタロウのことなんか……」 「…………」  結野さんは、じっと先輩の顔を凝視している。  なんだか——もう見ていられなかった。  普段はきっと仲良しのはずの二人が、俺のために、俺のせいで言い争う様子を見続けるのはつらかった。  俺は結野さんの肩に手を置き、ぐっと自分のほうに引き寄せた。 「結野さん……もういいです。そこをどいてください」  言いながら、結野さんの前に出る。先輩と向き合う。  いくら恋人とはいえ、結野さんに頼るのは男としてどうかと思う。ここは自分で決着をつけるべきだと思った。自分の力で先輩を説得するのだ。  俺は肩越しに結野さんを見ながら、にっと笑みを浮かべ、 「ありがとう、結野さん。あなたは、恋人——記憶を失う前の俺を、本当に愛してくれていたのですね。あなたの優しさに俺は心打たれました。だから、もう——」  そこで。  結野さんの様子がおかしいことに気づいた。  結野さんはなぜか全身をガクガク震わせている。こんな寒い日なのに、尋常じゃないほどの汗を掻いていた。  驚いた俺は慌てて結野さんに向き直る。 「ゆ、結野さん? いったい——」 「こ、こわい……」 「へ?」  結野さんは——  なぜか、右腕を大きく振り上げていた。 「ゆ……結野さん?」  結野さんはぎゅっと両目をつぶり、 「おとこのこ怖いよごめんなさいいいいいい————っっ!」 「はげあっぷぁ!?」  大気を引き裂きながら突進してきた結野さんの右拳が、俺の顔面の中心を見事に打ち抜いた。 「あびゃっびゃああ——っ!」  俺はぎゅるぎゅる回転しながら石動先輩のほうに吹っ飛ばされる。全身を悦楽が貫いていた。 「——チャンスだわっ!」  先輩は獰猛な笑みを浮かべながら、野球選手のようにバットを構えた。どうやら俺の股間をジャストミートする気らしい。  そ、そんなことをされたら……俺は確実に死んでしまう!  俺は吹っ飛ぶ体を止めようと、精一杯足先を伸ばした。  足先が地面を噛む。  そして——  その爪先を支点に、墜落するような勢いで顔面を地面に打ち付けた。 「——いぶぁ!」  意識が暗転。 「……ブタロウ」  聞き慣れた声に呼びかけられ、俺は瞼を開いた。  倒れる俺を見下ろしているのは、三人の女性。  石動先輩と、みちる先生と、結野だった。  俺はゆっくりと上半身を起こした。そして、きょろきょろ辺りを見回す。 「あ、あれ?」  ここは……どこだ? 「ここって焼却炉か? 確か俺は、ドMを治すために教育が必要だとか言った先輩に跳び膝蹴りを喰らって、それから石につまずいて倒れたはずなのに……なんで部室じゃなくてこんなところにいるんだ?」  頭上にクエスチョンマークを浮かべる俺を、先輩たち三人はぽかんとした表情で見つめていた。 「え……あ、あの、どうしたんですか? 俺、なんか変なこと言いました?」 「ブタロウ、あんた……」  なぜかメイド服を着ている先輩が言った。 「もしかして、記憶が戻ったの?」 「記憶が戻るって、どういうことです? 俺の記憶はいつものままですけど……」 「どうやら……いつもの砂戸太郎に戻ったようだな」  と、みちる先生。  ——先輩たちの話はすぐには信じられないものだった。昨日、部室で記憶喪失になった俺は、今日一日まるで別人のような感じで過ごしたのだという。 「まったく……」  先輩は苦笑しながら言う。 「ほんっと、この変態野郎は、余計な世話ばっかり焼かせるわね」 「タロー……よかった」 「うむ、一件落着だな」 「えっと……なんか心配かけたみたいで、すみません」  とりあえずあやまっておく。  立ち上がった俺は、なんとなく頭上の空を見上げた。  俺が記憶喪失だったなんて……それは本当の話だろうか? にわかには信じられないが、今日一日の記憶がすっぽり抜けてしまっていることから、それは本当のことだろうと思った。 「あ、あの……」  おずおずと声をかけてきたのは、結野だった。  結野は微妙に顔を赤くしながら、 「タローは……記憶を失っていたときのことって、覚えてるの?」 「えっと、それが……」  俺は頭をぽりぽり掻きながら、 「じつは、まったく覚えてないんだよな……」 「そ、そうなんだ……」  結野はホッとしたような、そして少し残念そうな、複雑な表情をしていた。 「なあ……記憶を失ってたときの俺って、なんかまずいこと言ったりやったりしなかったか? まったく覚えてないから、すげえ不安なんだが……」 「大丈夫だと思うよ……まずいこと言っちゃったのはわたしのほうというかなんというかその……」 「へ?」 「な、なななんでもない!」  結野はぶんぶん首を横に振りながら言うと、早足で俺から離れていった。みちる先生がゆったりした足取りでそれを追っていく。  たぶん部室にでも戻るつもりなのだろう。俺も二人を追いかけようとした。  そのとき——  くいっ、と服の袖が引っ張られた。  振り向く。  指先で俺の服の袖を掴んでいるのは、石動先輩だった。 「先輩?」  石動先輩は、かなりの仏頂面をしていた。 「あ、あの……なにか……?」  どうしたのだろう。なんか怒られるのだろうか。俺は反射的に身構えた。  先輩は上目遣いで俺を見つめると……  右手の人差し指を、俺の胸の上に置いた。  そして、 「二度と……」 「え?」 「二度と、あたしのこと忘れるんじゃないわよ、バカ」  囁くように言ったあと、結野やみちる先生のところに向かって駆けていった。 「は? え、えーっと……」  俺は自分の胸に右手を置く。  なんだかよくわからないけど——  少し、鼓動が早くなっていた。 第三話 天才少女の暴走パニック!  朝。目覚まし時計に起こされた俺は、寝ぼけ眼をこすりながら上半身を起こした。 「うう、寒い……あれ?」  布団をはね上げる。誰もいない。姉貴も母さんも俺のベッドに忍び込んでいない。 「珍しいこともあるもんだ……」  用意を終え、部屋を出る。と—— 「…………」  姉貴の部屋のドアに、雑誌くらいの大きさの紙が貼ってあるのを見つけた。  その紙には、 『ファッキン! 世界なんて滅んでしまえばいいのに!』  と、書いてあった。 「えーっと……」  俺は人差し指でぽりぽりと頬をかく。  少し迷ったが、俺は姉貴の部屋のドアを開けた。 「あ、姉貴。なんかドアに不穏当な言葉が書いてあるんだけど……」  姉貴は、ベッドで横になっていた。 「う、うぇん……しくしく……」 「姉貴?」  どうしたのだろう、姉貴はなんか泣いているような感じだった。  俺はベッドのすぐそばまで近づき、 「ど、どうしたんだよ? なんかあったのか?」 「太郎ちゃん……」  姉貴は悲しそうな声で、 「じつはわたし……好きな人にフラれちゃったの……」 「え、ええ!?」 「同じ大学の男の子でね……ずっと好きだったの。だから、思い切って告白したら、もう彼女がいるって……」  俺はあんぐり口を開けていた。 「悲しくて、悲しすぎて、だからドアにいまの自分の気持ちを書いたんだよ……」 「そ、そうなのですか……ずいぶんと極論ですけど……」 「行き場をなくした悲しみのせいで、リストカットまで繰り返す始末……」 「マ、マジか!? それはダメだぞ!」  俺は姉貴の腕を取った。腕の内側を見る。  そこには、無数の赤い線があった。俺は首をかしげる。 「姉貴、これって赤いマジックで線を書いただけじゃ——」 「ふぇーん! 太郎ちゃーん!」 「うおっ!?」  姉貴は飛びつくようにして俺に抱きついてくる。 「太郎ちゃん! かわいそうなお姉ちゃんを、どうか慰めてあげてくださいまし!」 「な、慰めるってなにを……」 「ぎゅっと、ぎゅーっと強く抱きしめてほしいんだよ! わたしの悲しい気持ちを受け止めるように!」 「あ、ああ」  俺は、フラれた姉貴がかわいそうだったので、言うとおりにしてやった。ぎゅーっと強く抱きしめてあげる。 「も、もっと! もっと強くだよっ!」  言われたとおり、もっと力を込めて抱きしめる。 「は、はふう……カ、カイカン……」 「これでいいのか、姉貴?」 「ううん! まだ足りないよ!」  姉貴は若干息を荒くしながら、 「じつはね、わたしの好きだった男の子って、すごく太郎ちゃんに似てる人だったの」 「そ、そうなのか?」 「うん……だから……」  姉貴は俺の胸の中でもじもじしながら、 「だから、太郎ちゃん……一度だけでいいから、その人になりきって、わたしのことを『好き』って言ってほしいんだよ……」 「ええ!? それは……」 「お願い! お願いだよ! 一度だけでいいから!」 「しょうがねえな……」  まあ、それで姉貴の悲しみが少しでも癒えるなら…… 「姉貴、好きだ」 「お、おふう——ダ、ダメだよ! 姉貴じゃなくて静香って呼んでくれないと!」 「あ、そうだな。じゃあ……」  俺は姉貴を強く抱きしめたまま、 「静香、好きだ」 「がはぅ! も、もももっと気持ちを込めて!」 「静香、好きだ!」 「もももももっとぉ——っ!」 「静香、大好きだ! 愛してる!」 「あ、あふぅ! ……も、もう、死んでもいいかも〜」  姉貴は俺の腕の中でくにゃあととろけた。 「もう一回……もう一回だけ……」 「す、好きだ、静香」 「た、たた、太郎ちゃん……わたしも大好き大好き愛してるよおおおお————っっ!」 「おおうっ!?」  姉貴は俺をカーペットの上に押し倒してきた。 「こ、こら! なにしやがる!」 「だ、だって太郎ちゃん! 静香を好きって言ったじゃない! はっきりと言ったじゃない! ほ、ほら、これが証拠だよ!」  言って、姉貴はどこからともなく取り出した小型のボイスレコーダーを掲げた。 『静香、大好きだ! 愛してる!』『静香、大好きだ! 愛してる!』『静香、大好きだ! 愛してる!』『静香、大好きだ! 愛してる!』 「お、おおう……何回聴いてもたまらんばい……」 「い、いつの間にそんなもんを!」 「太郎ちゃんはお姉ちゃんが大好きでお姉ちゃんも太郎ちゃんが大好きなのでこいつはもう両思いだぜいヒャッホーということでエッチなことをしましょう! いっぱいいっぱいしよう!」 「な、なにをトチ狂ったことを言ってやがる! 好きだって言ったのはフラれた姉貴を慰めるためだろうが!」 「そんな話、ウソに決まってるよ!」 「うすうす気づいてましたよほんっと俺って人がいいよなトリャアアア!」 「ひょえええ——っ!?」  俺は、巴投げの要領で姉貴の体を放り投げた。 「う、うええ——ん! 頭うったよぉ! いたいよぉ!」 「うるせえ! おまえはちょっと頭うつぐらいでちょうどいいんだよ! まったく……」  俺はため息をつきながら、姉貴の部屋を出た。  そこには—— 「……た、たたた、太郎さんが、静香さんのことを好きだって……だ、だだだだ、大好きだって、愛してるって……そ、そんなのウソですうぇああ……こ、これはすべて夢の中の出来事……うへ、うへへへ……」  母さんが、なんかやばい表情で倒れていた。 「…………」  俺はかぶりを振り、階段を下りた。  自宅近くの駅から電車で十五分ほど揺られ、桜守駅というところで下り、そこから十分ほど歩いたところに俺の通う私立桜守高校はあった。  十一月ももう終わる。来週には十二月。期末テストがはじまってしまう。うわあ、テスト嫌だ……俺はそんなことを思いながら、自分の下駄箱を開けた。 「ん?」  なんだろう。下駄箱の中に、上靴以外のものが入っていた。 「これは……封筒か?」  俺はその封筒を開けてみた。中には手書きの手紙が入っている。 「なになに……『砂戸くんにお話ししたいことがあります。放課後、発明部の部室に来てください。絶対に来てください。待ってます』って……書いてあるな……」  差出人の名前はなかったが、文字の感じからして、たぶん女の子が書いたものだと思う。  いったい、差出人は誰なのだろう。というか、俺に話したいことって?  しばらく首をかしげていたが、 「あ……」  ふいに気づき、俺は両目を大きく開いた。手紙をもう一度読む。 「も、もしかして、これは……」  これは、いわゆる——ラブレターというやつではないのだろうか。 「マ、マジで?」  ラブレターなんてもらったのは、生まれてはじめてだった。もちろん、はじめてだった。 「放課後……発明部の部室で……」  放課後、その場所で、俺はどんなことをお話しされるのだろうか。普通に考えれば、やっぱり愛の告白……いや、でもまさか……  俺は微妙にそわそわした気分で、教室に向かった。  教室に入ると—— 「あ、タロー」  一人の女子が俺に近づき、声をかけてきた。  クラスメイトで同じ部活に所属している、結野嵐子だ。 「えっ!? ゆ、結野!?」 「どうしたの? なんだか、すごくびっくりしてるみたいだけど……」 「い、いや、なんでもないよ。ははは……」  俺はごまかすような笑みを浮かべる。結野は首をかしげていた。  結野の視線が俺の顔から外れる。  その目は、俺の右手に向いていた。 「ねえ、その手に持ってるものはなに?」 「はい? ああああっ!?」  しまった! ラブレターをもらって浮かれ気分だった俺は、そのラブレターをポケットや鞄の中にしまわず、ずっと手に持ったまま教室まで来てしまったのだ。 「こ、これは、べつに……ただの真っ白ななにも書いてない紙だ!」 「真っ白な紙? どうしてそんなものを持ってるの?」 「さ、さあ……」  自分でもよくわからないのだが、俺はとても焦っていた。  べつに、ラブレターをもらうことは悪いことではないのだから、普通に『じつは、下駄箱にラブレターが入っててさ』とか言ってもいいはずだ。言ってもいいはず……でも、言わないほうがいいような気がする。すごく、する。 「なんだか……」  結野はジト目になりながら、 「その紙から、すごく邪悪なオーラを感じる……」 「な、なにを言ってるんだよ結野。わけわかんねえぞ、あはは……」  俺は冷や汗をかきながら言う。どうしてだろう、俺はいま生と死の境目にいるような気がした。 「そ、そんなことより、なんか俺に用か?」 「あ……そうだった」  結野は言って、 「さっき電話があったんだけど、美緒さん、今日は学校を休むって」 「へ? なんでだ?」 「風邪ひいちゃったみたいなの。そんなに重くはないんだけど、大事を取って休むみたい」 「へえ……珍しいこともあるもんだな。鬼の霍乱《かくらん》ってやつか」  でも、どうしてわざわざそんなことを俺に? 「あ、もしかして、石動先輩が休みだから今日の部活は休みにするって伝言を——」 「ううん、その逆。『あたしが休みだからって部活サボるんじゃないわよ』ってタローに伝えといてって言ってた」 「そうですか……」  テストも近いというのに、やっぱり部活は休みにならないんだな…… 「あと、『ド変態のブタ野郎、キモすぎるのよ。生まれてきたことを反省しながら腐敗しろ』って言葉も伝えてほしいって」  それはただの罵倒ですよね? 伝える必要ないですよね? 「それにしても……」  結野はじーっと俺の右手を見つめる。 「やっぱり……なんか、嫌な感じがする……」 「き、気のせいだって! じゃあな!」  言うと、俺は慌てて結野から離れた。  放課後になる。俺は席を立った。もちろん、発明部の部室に向かうためだ。  と—— 「……タロー」 「え!?」  いつの間にか、本当にいつの間にか、結野がすぐそばに立っていた。  ま、まるで気配を感じなかった……こいつは忍びか? 「これから部室に行くんでしょ? 一緒に行っていい?」 「…………」  普段、俺たちは一緒に部室には行かない。俺はたいてい辰吉とちょっと喋ってから部室に向かうからだ。今日は、辰吉が掃除当番なので喋ったりはしないのだが、そういうときでもわざわざ一緒に部室に向かうことなんかなかった。  それなのに、なぜ今日に限って……  結野は不自然なくらいにこにこしながら、言う。 「どうしたの? 一緒に行くのはイヤ? それとも……なにか用事でもあるの?」  最後のセリフを言うときだけ、結野の瞳が不穏に輝いたような気がした。 「え、えっと……」  俺はなぜか冷や汗を流しながら、自分の鞄を掴んだ。そして。 「わ、わりい! 俺ちょっと行かなきゃならないところがあるんだ。そーゆーわけで先に行っといてくれじゃあな!」  早口で言うと、全力ダッシュで教室を出て行った。 「あ……タロー!」  背中に結野の声がぶつかってきたが、振り向かない。  そのままの勢いで渡り廊下を走り、第二校舎に向かう。 「ふう……」  第二校舎にたどり着いたところで、息をついた。 「さて。発明部の部室って……どこだろうか?」  文化系の部活の部室は、おもにこの第二校舎の四階にある。校舎までのスロープの脇にあり、校庭に隣接している部室棟にあるのはおもに運動系の部室だ。どういうわけか、第二ボランティア部の部室もそこにあるのだが。 「まあ、第二ボランティア部はある意味、究極の運動系部活といえるのかもしれないけど……」  そんなことをつぶやきながら、廊下を歩いていると—— 「あ……ここか……」  扉の上に『発明部』と記してあった。 「なんか……すげえ緊張するな……」  発明部の部室で待っているということは、手紙の差出人は発明部の部員なのだろうか。というか、発明部っていう部があるなんてこと今日はじめて知ったな。  俺はおずおずと、部室の扉を開けた。  部室の広さは第二ボランティア部と同じくらいだろうか。壁にはいくつもコンピュータらしき機材が並び、机の上にはフラスコやビーカーなどが置いてある。なんか、すごく科学っぽい部屋だ。  あと、部室の隅のほうに、グローブとボールが置いてあることに気づいた。ボールは硬球や軟球じゃなくて小さい子供が使うようなやわらかいボール。科学っぽいものばかりが並ぶ部屋で、それだけが科学に関係なさそうなものだったので、なんか目に入ったのだ。  そして、部室の中には——一人の女子がいた。 「あ、あの……」  小さく呼びかける。俺のほうに背を向けて立っていたその女子は、俺の声に反応し、ゆっくりとこちらに体を向けてきた。  身長は俺の姉貴と同じくらいで、かなり小柄だ。さらさらな長い髪を背中に垂らし、頭の右だけ結ってシッポのように垂らしている。勝ち気な瞳で俺を見つめていた。  一瞬、小学生かと思った。が、桜守の制服を着ていることからして、れっきとした高校生なのだろう。  びっくりするくらい肌が白く、そしてかなりかわいらしい女の子だった。が、それにしても幼く見える。姉貴よりも幼く見えるのだから、かなりのものだ。  女子は俺を見上げながら、 「砂戸太郎くん……ですか?」 「あ、ああ……」  俺はぎこちない動作でうなずく。  女子はにっこり笑うと、チョコレートのような甘い声で言った。 「ノアは、柊《ひいらぎ》ノアというです。発明部の部長をやってるのです」 「柊ノア……さん」  その名前には聞き覚えがあった。彼女は、この学校では有名人なのだ。  二年生の柊ノア。彼女は超がつくほどの天才——らしかった。  両親ともに高名で天才的な学者、そして彼女自身は両親を遥かに超える才能を持っているという。噂では、IQ200以上という漫画みたいな知能指数を有しているらしい。そのあり得ないほど素晴らしい頭脳で、まだ十代だというのに科学の発展に大きな貢献をしてきたのだという。  が、しかし、彼女は人格にちょっと問題があるっぽかった。なんでも、桜守の生徒たちを実験動物ぐらいにしか見ていなくて、とんでもない研究をしてはその実験に桜守の生徒を使う。そして、かなりメチャクチャなことになってしまう。彼女は不世出の天才であり、同時に超弩級の迷惑人間でもあった。石動先輩と並び称されるくらいに。 「えっと……」  なぜ、そんなお人が、俺を呼び出したのだろうか。 「ノアのこと、知ってますか?」 「は、はあ、まあ……なんか、すごい天才だとか……」 「そうですっ! ノアは天才なのです!」  えっへん、という感じで薄い胸を張る。年齢的には先輩のはずだが、その姿はどう見ても小学生にしか見えなかった。 「あ、あの……それで、どうして天才の柊さんが、俺を呼び出したりなんか……」 「それは……」  柊さんは懸命な視線で俺を見つめ、 「砂戸くんに、ノアの実験を手伝ってほしいからです」 「実験? 手伝い?」 「そうなのです。協力してくれますか?」 「それは……実験の内容によるけど……」 「お願いです! 砂戸くんじゃないとダメなのですっ!」  胸の前で両拳を握り、睨むように俺を見つめる柊さん。  どうやら俺を呼び出した目的は愛の告白ではないようだ。俺は少しがっかりした。まあ、よく考えれば、俺みたいな奴が女の子からラブレターをもらえるわけないよな。 「砂戸くんが協力してくれるなら、ノアはなんだってするです……」  言うと、柊さんは、俺のほうにゆっくり近づいてきた。  そして、小さな両手で俺の右手を取る。 「柊さん?」  柊さんは少し恥ずかしそうな顔をしながら俺の右手を——  自分の胸に触れさせた。 「——っ!?」  かなり小さいけど、確かに伝わってくる、やわらかい感触。ふにふにという擬音が頭の中に溢れ、俺の脳みそはなんかメチャクチャになった。  が、すぐに我に返った俺は、柊さんの胸から右手を剥がそうとして——それを柊さんの両手に阻まれる。というか、さらに強く押しつける。 「ちょ、ちょっと柊さん! なにをして——」 「ノアは、なんでもするです」  俺から離れた柊さんは、うつむき加減で、 「高校生の男子なんて、みんなエッチです。そのエッチな気持ちに訴えかければ、思い通りに動かせるです。ノアは天才だから知ってるです」  耳まで真っ赤にしながら、制服の一番上のボタンに手をかけた。  ボタンを上から順番に外していく。制服をすとんと床の上に落とす。  次はブラウスのボタン——衣服に隠されていた白雪のような肌が、少しずつ露わになって—— 「って、なにしちゃってるんですか!?」  俺は激しく慌てながら叫んだ。 「砂戸くんに協力してもらうため、ノアは裸になるです」 「は、はあ!?」 「砂戸くん、お願いだからノアに協力してくださいです……」  言いながら、柊さんはさらにボタンを—— 「ストオオオオップ!」  俺は大声で言いながら、柊さんの両手首をがしっと掴んだ。 「ひ、柊さん! アホなことはもうやめてください! 頼むから!」 「だって、実験に協力するって言ってくれないですから……」 「協力するよ! なんでも協力するからもうやめてくれ!」 「ほんとですか?」 「はい、本当です!」 「うれしいです! ありがとうです!」 「ちょ——だ、抱きつかないでくださいよ!」  俺は顔を真っ赤にしながら叫んだ。 「では——」  柊さんはにやりと笑みを浮かべ、 「実験をはじめるですっ!」  言うと、天井からしゅるしゅると紐のようなものが下りてくる。 「えっ?」  その紐は、まるで生きているような動きで俺の全身にからみついた。そして—— 「ぬおおおおっ!?」  急激に体が引っ張り上げられる。 「こ、こここ、これは——なんですかあっ!?」  俺の体は、中空に浮かんでいた。  しかも、この紐の形は……いわゆる、亀甲縛りというやつである。俺は亀甲縛りをされながら、中空に吊されているのである。 「ひ、紐が体に食い込んで……うわあ、ううわあ……」  ビクビクと全身が震える。呼吸がはあはあと荒くなる。俺の脳みそはノンストップな快感に爆裂寸前だった。き、きもちよすぎるよぉ……はあ、はあ、はあ…… 「あとはこれを……」  言いながら、柊さんは俺の頭に突起物に覆われた巨大なヘルメットのようなものをかぶせ、固定した。 「うんっ! これで準備完了なのですっ!」  柊さんは満足そうに笑みを広げる。 「はあ、はあ……ひ、柊さん、これはいったい……」 「砂戸くん」  柊さんはきっぱりと言った。 「おまえ、ドMの変態ですね?」 「え?」  ぎくりとした。な、なぜそのことを……  俺はおびただしい量の冷や汗を流しながら、 「ナ、ナニヲイッテルンダヨ、ヒイラギサン。オレハヘンタイデハ……」 「ごまかしてもダメです。調べはとっくについてるですから」 「…………」 「安心してくださいです。おまえが変態だってことは誰にも言わないです。……むしろ、砂戸くんが変態だったことは、ノアにとっては福音なのですから。砂戸くんは、ノアがずっと探し求めていた人材なのです」 「そ、それはどういう意味だ?」 「うふふふ……」  柊さんは俺の質問には答えず、どこからか金属でできた棒のようなものを取り出した。  柄にあるスイッチを押す。すると、棒の先端からバチバチと電撃が放たれた。 「ノアが特別に作った電磁ロッドです。これを喰らうと、とっても痛くて苦しいんです」  い、痛くて苦しい……はあ、はあ、はあ……  俺はにやけ面をしながら柊さんを見下ろす。 「柊さん……ま、まさか……」  柊さんはにっこり笑顔で、 「その、まさかです」  電磁ロッドの先端を、俺の体に触れさせた。 「ノオオオオオオオオオオオ————ッ!?」  全身がバラバラにされるような衝撃。これまで味わったことのない種類の苦痛だった。 「おおう! ていゃあぁ! だうはあああっ!」  絶叫。 「あ、ああああ、あびぃ……はふぅ……」  びりびり。びりびりびり。ああ、電撃がボクの肉体を責めてくださってすんごく気持ちいいというかもうマジで死んじゃうよぉ……はあはあはあはあはあ……  そして—— 「うおお……うおおおおおおおおっっっ!」  あまりの悦楽によって俺の精神は蒸発した。  その瞬間、俺の頭にかぶせられていた機械が真っ白な光を放った。  光は輝きを増しながら膨張する。さらに膨張する。  こ、この光は、なんだ……?  圧倒的な輝きが空間を占拠し、視界が光に埋め尽くされる。  それと同時に、 「……………………げふっ……」  俺は限界を迎え、がくっと頭を垂らす。 「——ふっふっふっ」  いつの間にか、俺を責める電撃は止んでいた。 「ふっふっふっ! 実験は——見事に成功ですうううっ!」  柊さんの哄笑。俺は快楽の余熱を頭に残しながら、柊さんを見つめる。  柊さんは俺と目が合うと、にやりとなんか邪悪そうな笑みを浮かべ、 「砂戸くん。おまえのおかげで、計画は順調にスタートしたです。感謝するです」 「け、計画……?」  そのとき、俺は気づいた。発明部の部室の外から、なにやら雄叫びのような奇声が聞こえていることに。その奇声は一人のものではない。数人、いや数十人の…… 「こ、この声はなんだ? に、人間の声なのか?」  戦慄しながらつぶやく。  柊さんは俺から離れる。部室の壁に近づき、なにかのボタンを操作した。  すると、部室の壁の一部が、横に開いた。その向こうにはエレベーターの中のような狭い空間がある。柊さんはその中に足を踏み入れた。  柊さんを飲みこんだまま、壁が閉まる。  俺は一人、その場に残されてしまった。亀甲縛りのまま。  外からは、狂ったような声が聞こえ続けている。なんか、嫌な予感がした。かなり嫌な予感がした。 「と、とりあえず、この亀甲縛りを解かないと……」  俺は、メチャクチャに体を動かした。うりゃあ、うりゃあ、とかけ声を上げながら何度も何度も。すると—— 「あ、紐がゆるんで——おぶっ!」  紐が外れ、俺は顔面から床に落下した。 「い、いでぇ……」  呻きながら、立ち上がる。頭の機械も取り去る。  そして、部室の外を見てみた。 「——なっ!?」  大きく目を見開く。  俺の目の前には、恐ろしい光景が出現していた。 「げひひひひ! おなごのパンツはどこじゃああ————っっ!」 「ふおおおっ! お、オレはもう服を脱ぐぞ! 一生全裸で生きてやるうう!」 「く、くつした! 美少女のくつした食べたい! はううう!」 「ボボボ、ボーイズラブ大好きいいいいいい————っっ!」 「あ、ああ、あたし、女の子が好きなんです! ほんっと好きなんです!」 「尻なんだよ! 女は尻なんだよおおおお!」 「にょるううう! ハァハァ、俺の×○△を□※☆○してやるぜえええ!」  部室の外の廊下は……阿鼻叫喚の光景だった。 「こ、こここ、これはいったい……?」  呆然とつぶやく。そこにいる生徒たちは、なんとゆーか、正気を失っていた。完全に。どういうふうに正気を失っていたのかを具体的に説明できないほど、それをしてはいけないほど、みんなクレイジーな状態になってしまっていた。  見たままを簡潔に言うと、 「みんな……変態になっちゃっている……?」  と、いうことだった。 「ど、どうなってるんだよ……」  怯えながら、思わず一歩下がる。と——  発明部の部室。その扉のすぐ近くに置いてあったロッカーから、どんっという大きな音が聞こえた。俺の体がびくりと震える。 「な、なんだ……?」  どん、どん、とロッカーから音が聞こえてくる。それと、くぐもった人の声のようなものも聞こえてきた。 「ひ、人が中にいるのか?」  俺がそうつぶやいた瞬間。  ロッカーが中から開き、そこから制服を着た男子が倒れ込むように外に出てきた。俺はぎょっとしてその場から飛び退いた。  その男子は猿ぐつわをされ、全身をロープで縛られていた。  ハッと我に返った俺は、 「お、おい! 大丈夫か!?」  慌てて男子のロープをほどいた。  拘束を解かれたその男子は、 「た、たすかりました……」  と、弱々しい表情で言った。  綺麗な顔をした美少年だった。男なのに肌が白くて、髪もさらさらだ。身長は俺より少し低いくらいだろうか。なんとなく、気品を感じる容姿をしている。  男子は立ち上がると、俺の顔を見て、 「あなたは……砂戸太郎くんですね?」 「え? ど、どうして俺のことを知ってるんだ?」 「あなたは、ノア様の計画のキーパーソンですから」 「ノ、ノア様?」  って——柊さんのことか? 「僕は、一年生の日村雪之丞《ひむらゆきのじょう》といいます。発明部に所属していて、ノア様の助手みたいなことをしています」 「は、はあ……」  俺は曖昧にうなずく。 「あの……なんか、いろいろ理解不能なことが起こりすぎて、すげえ困ってるんだけど……柊さんが俺を縛ったりとか、みんなが変態になっちゃったりとか……」  日村は苦痛に耐えるような表情を浮かべ、 「それは……ノア様の、人類変態化計画のせいなんです」 「じ、人類変態化計画?」  なんだそれは? 「変態人間が変態的に興奮するとき放出される未知のエネルギー——ノア様はそれを変態エネルギーと命名しましたが、その変態エネルギーを校内に発振することによって、いまこの学校にいる教師と生徒たちの脳波を干渉・浸食し、みんなの意識の奥深くに眠っていた微かな変態性を増幅したのです。だからみんな変態になってしまったのです。変態エネルギーの影響から逃れているのは、エネルギーを遮断する特殊な素材で囲まれたこの部室内にいた人間、ノア様と砂戸くんと僕だけ」 「……おまえ、変な漫画の読みすぎじゃねえのか?」 「信じられませんか? その気持ちはわかりますが、でも現にみんな変態になってしまっているじゃないですか。常識にとらわれず、いま目の前で起こっている出来事に向き合ってください」 「…………」  確かに、みんな変態になってしまっている。それは紛れもない真実だった。 「それに……みんながこんなふうになってしまったのは、ドMであるあなたが放出した変態エネルギーのせいなんですよ?」 「俺のせいって——と、というか!」  俺は愕然としながら声を上げる。 「お、おまえも、俺がドMってことを知ってるのか!?」 「はい」  日村はこくりとうなずく。 「な、なんてこった……ダダ漏れじゃねえか……」  俺は頭を抱え、その場にしゃがみ込む。 「砂戸くんがドMの変態であるということを知ることができたのは、ノア様が作った変態感知装置のせいです」 「え?」 「校内にいるすべての人間を変態にするほどの変態エネルギーを発振するためには、かなりのポテンシャルを秘めた変態を媒体にする必要があります。ノア様は人類変態化計画を実行するため、媒体となり得る変態を捜していました。そのために、変態人間を感知する装置を作り出したのです。その装置によって、砂戸くんという優秀な変態を見つけ出してしまいました……」 「ゆ、優秀な変態……」 「はい。装置が検出した砂戸くんの変態値は、三万を超えていました。普通の人間の変態値が五程度ですので、三万というのはかなりすさまじいです。尋常じゃないくらいの変態です」 「…………」  なんか、ヘコむぞ。 「砂戸くんという鍵を手に入れたノア様は、人類変態化計画を実行することにしました。砂戸くんを部室に呼び出し、変態エネルギー増幅装置を装着させ、加虐によって変態的な興奮状態に導くことで変態エネルギーを発生させたのです」  じゃあ、さっき俺を縛ったり電撃で責めたりしたのは、俺から変態エネルギーを発生させるためにやったことなのか……  日村はうつむき加減で、 「僕はそんな計画はやめるようにと意見して……そしてノア様の怒りを買い、気絶させられた上にロッカーの中に閉じこめられたのです」 「柊さんは、なんでそんな計画を……」 「詳しいことはわかりませんが……最近のノアさまは、なにかにとても苛立ち思いつめている様子でした。おそらく、その苛立ちが原因かと……」  日村は、どこか憂い顔でつぶやく。  それから、俺を見つめると、 「でも、これはまだ計画の第一段階に過ぎません。ノア様の目的は、全世界の人間を変態にすること。桜守高校の教師や生徒たちを変態にすることが第一段階、変態になったみんなの変態エネルギーを共振させることによって全世界に変態エネルギーを伝播させることが第二段階です。これが完遂されてしまうと、全世界は変態人間だけになってしまいます。その前に、なんとかノア様を止めないと……」 「あ、ああ、そうだな……というか、柊さんはどこに……」 「屋上です。屋上に、生徒たちの変態エネルギーを共振させるための機械があるはずです」  屋上——さっき柊さんが乗り込んだのは、やはりエレベーターだったのか。柊さんはそのエレベーターに乗り込み、屋上に向かったのだ。 「わかった。じゃあ、とりあえず屋上に……」  行こうとして、足がふらつく。さっきの酷い加虐のせいだ。  俺の体が、日村にぶつかった。  そのとき、日村の制服の胸ポケットからなにかがパラパラと落ちた。写真のようだ。俺は床に落ちた数枚の写真に目をやった。  その写真には、小さな子供が写っていた。  五歳から十歳くらいの年齢の、かわいらしい女の子たちだ。  俺は首をかしげる。どうして日村はこんなものを持っているのだろうか。もしかして、妹や親戚の写真とかか?  少し不思議に思いながら日村を見ると、彼は、 「あ……え、えっと、これは……」  露骨に目を泳がせながら、なんかそわそわしはじめた。 「ち、違うんですよ、そうじゃないんですよ、ほんとに……」  顔に汗を掻き、両手を腰の辺りになすりつけるという無意味な動きをしながら、両足をもじもじさせる。完全なる挙動不審だった。 「べ、ベベベベ、べつに、僕はアレな感じのコンプレックスを抱えているとゆーわけではなくて、ただ、ちっちゃくてカワイらしい存在を愛しているだけというか、えっと、つまりその……」  俺はジト目で日村を見つめる。  日村は、慌てた様子で写真を拾い集める。  俺は日村を見つめ続ける。日村は俺から目を逸らしている。  やがて、 「あ——あんただってドMの変態野郎でしょうがあああああ——っっ!」  びしっと俺に向けて人差し指を突き出し、それはそれは見事な逆ギレをした。 「あ、あんたも変態のくせに、僕をゴミクズみたいな目で見るなよおおお!」 「うるせえ! ロリコン野郎がなにを言ってやがる! この未来の犯罪者が!」 「し、心外だ! 僕はそーゆー変態なんかじゃない! か、かわいらしいものを愛でるというのは、人類共通の気持ちであって、だから僕は……」  あわあわと苦しい弁解する日村。  そのとき、俺はふと思い至った。 「もしかして……おまえが柊さんの助手をやってるのは、柊さんが幼児体型だから……」 「げぶっ! ち、ちちち、違いますよ!」  日村は手足をバタバタさせながら言った。 「ノ、ノア様が高校生には見えないほどミラクルキュートなボディをしているから、そんな理由だけで僕はノア様に仕えているわけではありません! ノア様は僕に約束してくれたんです! いつか、人類幼児化装置を作って、すべての女性をロリロリ体型にしてくれるって! 今回の計画だって、その幼児化装置のためだと思ったから、僕は資金援助とかいろいろ手助けしたのに、ノア様に騙されちまった——みたいなことは絶対にありませんから! あはは、あはははは!」 「こいつ……マジで変態だな……」 「砂戸くん! いまはそんなこと言っている場合ではありません! 一刻も早くノア様のもとに向かわないと!」 「あ、ああ、そうだな」  俺はしぶしぶうなずく。  俺と日村は廊下に出た。 「ノア様を止めて、全人類の変態化を阻止しないと……」  日村がそうつぶやくと 「ハァハァ……なんだと?」 「へ、変態化を阻止する?」 「ど、どうしてそんなことするのよぉおおお!」 「そうだぁ! みんな変態になればいいだろうがああ!」  廊下にいる変態生徒たちが、怒りの目で俺たちを見つめた。  俺は冷や汗を流しながら、 「お、おい……なんかやばくないか?」 「え、ええ……そうですね……」  そして。  変態たちが、雄叫びを上げながら俺たちに突進してきた。 「な——!?」 「ひ——!?」  俺と日村は慌てて変態たちの攻撃を避ける。 「こ、こここいつらを屋上に行かすなあ!」 「おおおう! 殺せえ! こいつらを殺せえ!」  やばい。もう目が完全にイッちゃってる。 「日村! どうすんだよ、こんなんじゃあとても屋上まで行けねえぞ!」 「は、はい、えっと……そうだっ!」  日村はなにか閃いた顔をすると、いったん発明部の部室に戻った。  すぐに廊下に舞い戻り、 「砂戸くん! これを腰に装着してください!」 「へ?」  日村が部室から持ってきたのは、大きなバックルの着いたベルトだった。なんか、仮面ラ○ダー的な人たちが巻いているものに酷似している。 「な、なんだよそれ!?」 「いいから! 早く!」 「ええい! わかったよ!」  俺はそのベルトを腰に巻いた。 「装着したら、バックルのボタンを押してください!」 「ボタン? こ、これか?」  俺はバックルのボタンを押した。  と—— 「え……?」  俺の全身を、光の粒子が包み込んだ。 「な、なんだこれは……」  全身から力がわき上がってくる。すげえ不思議な感覚だった。 「それは、ノア様が変態エネルギー研究の過程で造り出した装置です」  と、日村が言った。 「装着者の周囲に特殊な変態エネルギーフィールドを展開・固定化し、装着者の身体能力を劇的に強化します。装着者の変態性が高まれば高まるほどエネルギーフィールドはその強度を増し、より強い力を発揮できるはずです。その力を使って活路を開いてください!」 「おう!」  俺は吼える。そして、迫り来る変態モンスターたちに向き合った。 「とりゃああああっ!」  正気を失った変態たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ。  変態エネルギーのおかげで無敵のスーパーマンとなった俺は、邪魔をする変態生徒たちを投げ飛ばしながら前に進んでいった。 「す、すごい! さすが砂戸くん! 素晴らしい変態力です!」 「おまえに言われたくねえ!」  後ろから着いてくる日村に怒鳴る。  順調に前に進む。屋上へと続く階段が近づいてくる。  だが。 「うおっ!?」  渡り廊下から雪崩のように突っ込んでくる群体。  それは、第一校舎から攻め込んできた変態生徒たちだった。 「さ、鎖骨っしょ! やっぱ女子の鎖骨っしょ!」 「オウイエス! 俺は熟女の爪垢にしか興味がないぜええええ!」 「ブ、ブルマ! ブルマブルマブルマ!」 「ハァハァハァ! マ、マッサージさせろおぉ! わたしにマッサージさせろおお!」 「オーホッホッホッホッ! わたくしは股間にある汚いものを切り落として完璧なる女性になるのですわよおおお!」 「こわいよぉ! こわいから男子はすべて殴っちゃうよおおおおお!」 「マッスルマッスルマッスルウウウウ! プロテインは神の粉ああああ!」  なんという物量。これはちょっとやばい。あと、なんか知ってる顔もいるような気がしたが、いまはそんなことに気を取られている余裕はない。  変態の集団に廊下をふさがれ、俺たちの足が止まる。とりあえず近くにいる奴から投げとばして進路を確保しようとするが、こんなに人数が多いと時間が…… 「くそっ!」  そのとき—— 「でやあああああ————っっ!」 「日村!?」  日村が、変態たちの真ん中に突っ込んでいった。 「僕がおとりになってこいつらを引きつけます! 砂戸くんは屋上に!」 「日村……」 「早く! すべてが手遅れになる前に!」  日村は男前な笑みを浮かべる。 「砂戸くん……世界を、頼みます」  日村はすぐ変態たちにもみくちゃにされてしまう。ビンタされ、鞭で叩かれ、パンツを下ろされ、尻を撫でられ、無理矢理メガネをかけさせられ……なんとゆーか、悲惨な感じだった。とても見ていられない。  だが——日村が変態たちの注意を引きつけてくれたおかげで、変態たちの隊形に偏りが生まれた。俺はその偏り、変態たちの密度が低い場所に強引に体をねじ込む。そして体勢を低くし、変態たちの隙間を疾風のように駆け抜けた。  俺は奥歯を噛みしめ、つぶやく。 「——日村。おまえは立派な男だったぜ。ロリコンだけど」  あとは俺に任せろ。必ず、柊さんを止めてやる。  背後から日村の悲鳴が聞こえてきたような気がしたが、俺は決して振り返らなかった。  屋上の重い扉を開けると、冷たい風が俺の頬を打った。一瞬顔をしかめる。  素早く扉を閉めると、 「うりゃあああっ!」  叫びながら、屋上の扉を思いっきり蹴りつけた。扉の中心が陥没し、歪む。 「これで……簡単には開けられないはずだ」  俺は屋上に向き直る。  そして、絶句した。 「な……こ、これは……」  屋上には——巨大な塔のようなものがそびえ立っていた。  全長は十メートルぐらいだろうか。黒っぽい色をした金属でできているように見えるそれは、圧倒的な異物感をまといながら天に向かってまっすぐと伸びている。 「と、登校してきたときにはあんなもんなかったのに……」  どういうカラクリかはわからないが、なんらかの方法で隠していたのだろう。  その塔の根もとに、柊さんは立っていた。  柊さんは塔の一部分から突き出たコントロールパネルのようなものを操作している。 「柊さん!」  叫ぶと、柊さんはぎょっとした顔をこちらに向けた。 「え……さ、砂戸くん!? どうしてここにいるですか!?」 「柊さん! 馬鹿なことはやめてくれ!」 「その腰に巻いているのは……なるほど、ノアの発明品を使ってここまで来たですね? 卑怯な変態です」  苛立ちを隠そうもせず、告げる。 「もうちょっとで変態エネルギーの発振が終わるです! だから、そこでおとなしく待ってなさいです!」 「そ、そんなわけにはいかねえ! 人類を変態になんかさせねえからな!」  言って、俺は柊さんのほうに駆け出す。変態エネルギーによってパワーアップしているいまの俺なら、柊さんを止めることはたやすいはず。そう思った。  だが。 「ふんっ! 邪魔はさせないですよっ!」  柊さんがそう叫ぶと——  屋上の一部が開き、そこから、無骨なデザインの巨人が姿を現した。  四メートルくらいの大きさの、巨大な人型。鷲のように獰猛な面構えをしている。 「な……こ、これは……」 「それは、この装置を守護するためにノアが造ったロボットですう!」  ロボット? マジで? この子、そんなもんまで造れちゃうの? 「いけー! そこのマゾヒストをぶっ殺すですよぉ!」  言って、柊さんはまっすぐ俺を指さす。  ロボットの瞳がびかーっと輝く。そして、右手に持っていたライフルを構えた。 「あ、あの……ちょっと……」  俺は露骨に腰が引けていた。  銃口から——なんかビーム的なものが発射された。 「おいいいいいいいい——っ!?」  慌ててその場からダイブする。  まっすぐ発射されたビームはさっきまで俺のいた場所を貫き、屋上のコンクリートに大きなひび割れを作った。 「しゃ、しゃれにならんぞ……」  ごくりと生唾を呑みこむ。  と、目の前に—— 「ふえ?」  ロボットの巨大な体躯があった。  ロボットは剣のようなもので俺に斬りつけてきた。 「ひょげえええ!」  間一髪、それを避ける。  ロボットの両肩が開く。そこには無数のミサイルが収納されているように見えた。そのミサイルが一斉に火を噴き、俺に向かってくる。 「うひゃあああああ!」  避けることはできない。俺の体は爆発に呑みこまれた。 「げ、げふ……」  黒こげになりながら倒れる。変態エネルギーで全身が強化されていたからたすかったものの、普通ならマジで死んでるぞこれ。 「ふふふ……これで、ノアを邪魔する者はいなくなったです……」  柊さんは邪悪な表情を浮かべながら、にやりと笑う。 「うひゃひゃひゃ! ノアが、この不愉快な世界を変革させてやるですよーっ!」  叫ぶと、柊さんは狂ったような様子でコントロールパネルを操作しはじめた。  俺は立ち上がろうとしたが、ミサイルのダメージによって傷ついた肉体はもう満足に動いてくれなかった。両肘をついて顔を上げるのが精一杯だ。こんな状態ではなにもできやしない。 「くそ……ど、どうすれば……」  俺はぎゅっと拳を握りしめた。  力がほしい。柊さんを止めるだけの力が。 「あ……そ、そうだ!」  俺の腰に装着された装置。これは、装着者の変態性が高まれば高まるほどより強い力を発揮するのだという。  ならば…… 「これは……賭けだな……」  つぶやき、ぶるぶる震える右腕を苦労して動かすと、制服のポケットから携帯電話を取り出した。そして、ある番号を呼び出す。  電話はすぐにつながった。 『ブタロウ? なんか用なの?』  携帯電話の向こうにいる石動先輩が、不機嫌そうな声で言った。 「あ、えっと……先輩、風邪は大丈夫ですか?」 『え?』  先輩は少し驚いたような声を出した。それから、 『な、なによ……もしかして、あたしのことが心配で電話してきたの?』 「はい、まあ……」 『…………』  先輩は黙ってしまった。  俺はそのあいだに、心の準備をしていた。 『そ、そう、へえ……あたしのことが心配で。ふうん……』  なんか、先輩はちょっとうれしそうな声——のような気がした。 「あと、先輩に伝えたい言葉があるんですけど……」 『ん? な、なによ?』 「ブス! 貧乳! メスブタ!」  大声で言って、一方的に通話を切る。  先輩の家は学校からかなり近いと聞いたことがある。だから、急げば数分で——  とか思っていたら。  ひしゃげた屋上の扉が、爆発するように内側から開いた。  パンツが思いっきり見えちゃうような蹴り足を上げた格好でそこにいたのは、たったいま俺と電話を終えたばかりのはずの石動先輩だった。 「う、うわあ、すげえ早い……」  しかも、先輩の背後には、変態生徒たちが死屍累々……あ、あいつらをブチ倒しながらここまでやってきたのですか……  先輩はゆっくりと俺に近づいてくる。あまりの怒りのせいで、周りの状況とかは視界に入らないようだった。 「ブタロウ……」  学校にいなかったおかげで変態エネルギーの影響を受けていない先輩は、激しい怒りに表情を歪めながら、 「誰がブスですって? あ、あと貧乳とか言ったかしら? ブタのくせにメスブタとも言いくさりやがったわね。知らなかったわ、あんたに自殺願望があったなんて」  全身から殺意が迸る。俺は反射的にあやまりそうになった。  が、それをなんとか我慢し、 「う、うるせえんだよ貧乳! ツルペタが調子に乗ってんじゃねえよ!」 「死刑よ」  先輩は悪魔的な眼光を放つと、倒れている俺に激しい蹴りを放った。 「おふう!」 「ブタ変態のくせに! この美緒さまに向かって! マジで! マジでマジで! ゆるせないわ! おら死ね! 死ね死ね死ね死ねエエエエ!」 「はあ、はあ、はあ……い、いいですよ先輩! もっと、もっともっともっと蹴ってください! ボクちんを蹴りまくってくださいいいい————っっ!」 「よがってんじゃないわよド変態が! お望み通り死ぬまで蹴りまくってやるわ! この、このこのこの!」 「はあ、はあ、はあ、はあはあはあはあ——」  俺の中でドM的な快楽が膨れあがっていく。どんどん膨れあがっていく。  そして。 「ハアァイアイイイァイアヤヤア————ッッ!」  悦楽が精神の国境線を越えたとき。  俺の全身から、圧倒的な力が噴出した。 「な……?」  石動先輩が驚いた顔で俺から離れる。俺の肉体から放出された超絶的なエネルギーに軽く吹き飛ばされたような感じで。  俺の中の変態性を高めるため石動先輩をここに呼んだのは、やはり正解だった。極限まで高められた変態性が、ものすごいエネルギーとなって周囲に迸る。  俺は——ゆっくりと立ち上がった。 「ブ……ブタロウ?」  先輩は怒りを忘れた様子で、俺に声をかけてくる。 「石動先輩……ありがとうございます」 「ほえ?」 「先輩の加虐のおかげで、俺は限界を超えることができました」 「な、なにを言ってるのかまったく意味がわからないんだけど……とゆーか、あんたなんで急に金髪になったの? しかも、なんか全身からオーラ的なものが出てるけど……」 「それは——俺が伝説のスーパード変態になったからです」 「えーっと……」  先輩は困った顔で首をかしげていた。 「先輩……危険ですから、屋上の隅のほうに避難しておいてください」 「は?」 「早く——俺の理性が残ってるうちに、早く逃げるんだ!」 「あんたなに言ってんの?」  俺は、天高くそびえる装置のほうに体を向けた。柊さんはコントロールパネルを操作することに夢中で、こちらにはまったく意識を向けていない。ロボットは柊さんの背中を静かに守っている。  柊さんを止めるには、まずあのロボットをなんとかしないといけないようだ。  地を蹴り、ロボットに近接する。 「ハアアアァ!」  気合いの声と共に、俺はロボットの顔面を殴りつけた。  ロボットの巨体が屋上のフェンスに倒れ込む。 「な——!?」  柊さんが驚愕の表情を向けてくる。 「さ、砂戸くん、その力は……」 「限界を超えたマゾヒズムが、俺に力を与えてくれました。柊さん、もう終わりです。計画は諦めてその装置を停止してください」 「ふ、ふざけるなですっ! ノアのロボットの力は、こんなもんじゃないです!」  柊さんはロボットに向けて、 「リミッター解除! そこの変態をぶっ殺すです!」  すると——ロボットの機体が光に包まれた。  輝く粒子を身に纏いながら、ロボットは俺に向かってくる。 「は、速い……!」  ロボットが真横に振り抜いた剣のようなものを、俺は間一髪で避けた。 「このぉ!」  ロボットの顔面に向けて蹴りを放つ。ロボットはジェット噴射で空に飛び上がり、俺の攻撃をかわした。  俺は思いっきり地を蹴り、空中に浮かぶロボットのほうに飛翔した。スーパード変態になったいまの俺にとって、空を飛ぶなんてことは造作もないことだ。  お互い空中に浮かんだまま、常識を超えた速度で攻撃を繰り出す。衝撃波が大気を歪める。彼我の戦闘力はほぼ互角だった。 「でやあ!」  ロボットの右手を蹴る。ロボットは剣のようなものを下に落とした。  チャンスだと思い、俺は決死のラッシュを放つ。それを数発喰らったロボットは、さらに上空に逃げた。  そして、下方にいる俺に向けて、両腕を突き出す。  両腕が変形し連結され、巨大な砲身となった。砲身の先端にエネルギーがチャージされていく。恐ろしい攻撃が来ることを、俺は本能で察知していた。 「く……」  ロボットを追いかけようとしていた俺は、その場で動きを止めた。そして、合わせた両手を腰だめに構え、自分の肩越しにロボットを見やる。  俺の全身を覆っていた変態エネルギーを、合わせた両手に集中する。 「へ、ン、タ、イ——」  轟音とともにロボットの砲身から圧倒的な光の帯が放たれる。それとほぼ同時、俺は両手をロボットのほうに突き出していた。 「——波ァアァアァア————ッッッ!」  収束された変態エネルギーが俺の両手から送る。  両者から放たれた破滅的な光は、その中間で激しくぶつかり合った。互いのエネルギーは均衡し、鍔迫り合いのようにその場で押し合う。 「ぐ……ううう……」  俺は——体内に残っていたすべての力を込めた。 「うおおおああああああ————っっ!」  膨張したヘンタイ波はロボットが放つ光を呑み込み、激流と化す。それはロボットの全身を余すことなく包み、そして光が消えたあと——  ロボットは跡形もなく消失していた。 「や、やった……」  俺は、屋上のコンクリートの上に落下した。すべてのエネルギーを使い果たしたので、もう飛ぶこともできない。 「ブ、ブタロウ!」  石動先輩が慌てて駆け寄ってくる。  そのとき—— 「ふっふっふっ……」  と、邪悪な笑い声が聞こえてきた。 「砂戸くん……残念ですが、ノアの勝ちです」  コントロールパネルから手を離した柊さんが、両手を腰に当て、俺を見ていた。 「ロボットが時間を稼いでくれているあいだに、すべての作業は終了しました」 「え……?」  俺の顔が青ざめる。  柊さんは勝ち誇った顔で、背後の装置を仰ぎ見た。 「桜守の生徒たちから集めた変態エネルギーはもうこの装置に収束してるです! あと一分も経たないうちに……変態エネルギーが全世界に発振されるです!」 「な——」 「ふははははは! 世界は変態たちの楽園になるです! それはとっても楽しい世界なはずですよぉ! ぶははははあああ——っ!」 「そ、そんな……」 「えーっと……なんか、全然話が見えないんだけど、誰か説明してくんない?」  石動先輩が眉をしかめながら告げる。が、それに応じるだけの余裕がなかった。  塔のような装置が輝きに包まれる。それは、世界を変える力。  俺はうつ伏せになりながら、柊さんに向かって声を張り上げる。 「やめてくれ柊さん! どうして……どうして、こんなことするんだっ! 全世界の人間を変態にするなんて、そんな馬鹿なこと……」 「どうして? ……ふん。変態エネルギーが発振されるまでの暇つぶしに教えてやるです」  柊さんは俺を睨みつけ、 「それは……ノアの仲間を作るためですっ!」 「な、仲間?」 「そうです……」  囁くように言うと、柊さんは俺から目を逸らした。  ぎゅっと拳を握りしめ、小さな体から言葉を吐き出す。 「ノアは天才です。普通の人間とは違う選ばれた存在です。——ずっとそんなふうに言われて、生きてきました。自分と同い年くらいの子供たちから切り離されて、こびへつらうような笑みを浮かべる大人たちの群れの中で、知識を詰め込むことだけを強要されたです……」  でも、ノアはうらやましかったです。  校庭や公園で楽しそうに遊ぶ、同世代の子供たちがうらやましかったです。 「だから、ノアは周りの大人たちに言いました……精一杯の笑顔で、言ったです……」  ノア、公園のジャングルジムに昇りたいです。ブランコをこいでみたいです——そんなことをしてはいけません、もし怪我でもしたらどうするのですか。  ノア、おままごとがしたいです。ノアがお母さん役であなたが——なにをくだらないことを言ってるのですか、君のような人間にそんな幼稚なことは必要ありません。  ノア、キャッチボールがやってみたいです。だから、このボールでいっしょに——そんなことより、次の論文を早く書き上げてください。 「だけど、誰もノアが遊ぶことをゆるしてくれなかったです。誰もいっしょに遊んでくれなかったです。ノアは天才だから、普通じゃないから……だから、普通のみんながするようなことをしてはいけなかったのです」  柊さんの瞳を、寂しさの膜が覆う。 「ノアは天才です。そこらにいる凡人どもとはまったく違う人間です。普通じゃないのです。……でも、独りぼっちです。だから、独りぼっちです」 「柊さん……」  柊さんの表情がくしゃりと歪む。  そして、駄々っ子のように激しく頭を振りながら、叩きつけるように叫んだ。 「だったら! ノアが普通じゃないんだったら、ほかの奴らも普通じゃなくしてやるのです! 普通の人間とは違う、違う違う、違う違う違う違う違う違う——そんなふうに言ってノアを独りぼっちにするなら、みんなもノアと同じ『普通じゃない人間』にしてやるです! そしたら、ノアは……ノアは……」  しゅんと、普段よりもさらに小さくなる柊さんの体。 「ノアは……独りぼっちじゃ、なくなるです……」  と——自分さえ騙せないようなか細い声で、告げる。  俺は呆然と柊さんを見つめる。  柊さんがこんなアホみたいな計画を実行しようとした理由……  それは、なんというか、俺が思っていたよりも深刻なことだったのだ。少なくとも柊さんにとっては。  そして——そのとき、ふと気づいた。  俺のそばに立つ石動先輩が、じっと柊さんを見つめていることを。  その表情に在るのは深い共感……俺は直感的にそう思った。間違っているのかもしれないが、俺はそう感じた。先輩がなぜそんな表情を浮かべているのかは、まったくわからなかったけれど。 「…………」  俺は柊さんの小さな姿を見つめる。  ——持って生まれた才能のせいで、孤独な人生を歩んできた柊さん。いや、才能のせいではなく、彼女の才能しか見ようとしなかった大人たちのせいで。そんな大人たちの檻の中で、柊さんは『独りぼっち』に苦しんできた。  その苦しみがわかる……と、そんなことは言えない。 「柊さん……」  俺は、ふらふらと立ち上がった。 「こんなことをしても……すべての人間を『普通じゃない』状態にしても、柊さんがいま抱えている苦しい気持ちがなくなったりはしない。そんなこと、俺よりも遥かに頭のいい柊さんには、とっくにわかってることだろ?」 「…………」  柊さんはうつむき、黙り込む。その沈黙が答えだった。  俺には、柊さんの苦しみがわからない。  でも、ドMという負の才能のせいで、人生の一時を差別と孤独とともに過ごした経験のある俺ならば、柊さんの苦悩の裾に触れることぐらいはできるのではないかと思った。 「俺でよければ、付き合うから」  俺は笑顔を浮かべ、言った。 「ジャングルジムやブランコで遊びたいなら、日が暮れるまで一緒に遊んでやる。おままごともしようか。柊さんがお母さんで、俺がお父さんだ。ちょうど背がちっこい友達がいるから、そいつを息子にしよう。あっ、あいつなら娘も可能だな。キャッチボール……大得意だ。子供のころ、父さんとよくやったから」  俺は腕と手首で投げる動作をする。 「柊さんがどんなところにボールを投げても、見事にキャッチしてやる。受けやすいボールを投げてやる。……それ以外にも、いろんなことをしよう。柊さんがやりたくてもできなかった、普通で当たり前の遊びを。だから——こんなことはもうやめてくれ」 「砂戸くん……」  柊さんはどこか呆然とした顔で、俺を見つめている。  その小さな唇が震えながら開き、なにか言葉を落とそうとした——直前で、柊さんはハッと我に返ったような顔をした。そして、 「だ、騙されないです! ノアはそんな戯れ言では騙されないですよ! ド変態の言葉なんか、信用できないです!」  大声で叫ぶと、激しく俺を睨んだ。 「それに……もうなにもかも手遅れです」 「え?」 「もう、変態エネルギー発射シークエンスは最終段階に入ってしまったです。こうなってしまったら、もうノア自身にも止めることができないです……たとえ、ノアが奇跡的に心変わりしたとしても、もう手遅れなのです」 「そ、そんな……」  俺は愕然としながら塔のような装置を見上げる。  装置はさらに輝きを増していた。 「もう……どうしようもないのか……」  このまま……人類が変態になるのを待っているしかないのか……  と—— 「え……?」  俺は辺りをキョロキョロ見回す。  声が、聞こえたような気がした。  遠くから、声が—— 「空耳か? いや……違う」  俺の肉体に残っていた微かな変態エネルギーが、その声に反応していた。 「ブタロウ……どうしたの?」 「声が聞こえるんです……」 「へ? なにも聞こえないけど……」 「聞こえるんです! 確かに!」 「……病んでるの?」  声というより——意志。  それは、 「そうか……」  全世界に存在している、変態たちの意志だった。  変態エネルギーによって強引に変態にされてしまった桜守の生徒たちとは違う、生粋の変態たちの、意志の響き——  俺は、ゆっくりと背筋を伸ばした。  両足をぐにゃりと絡め、両腕も巻き付けるように絡め、手のひらを天に向かって掲げる。 「あ、あんた……その気持ち悪い格好はなんなの……?」  石動先輩が唖然としながらつぶやく。が、俺はいまのこの変態っぽい格好がこの状況に一番ふさわしいスタイルだということを本能的に理解していた。 「変態のみんな、俺に力をわけてくれ……」  いまここで起こっている事態を無意識下で察知した世界中の真性変態たちが、俺のもとに変態エネルギーを届けてくれる。あの塔のような機械に集まっている紛い物のエネルギーではない、真の変態によって生み出された真の変態エネルギーを。  真の変態エネルギーは共鳴現象によってさらに増幅され、俺の上空で巨大な球形エネルギー体を構成していた。  あの球形エネルギー体こそ——変態たちみんなの力を集めた、変態玉だった。  塔のような機械がまばゆい光を放つ。その光が塔の先端に集まる。普通の人間を偽物の変態に変える、紛い物の変態エネルギーが発振されようとしている。  その直前。俺は、渾身の力を込めて—— 「いけえええええええ————っ!」  絡めた両腕を振り下ろした。  その動きに追随するように、上空に在った変態玉が、空を斜めに横切る。  変態たちの意志と力が込められた変態玉は、屋上に屹立する塔——変態エネルギー発振装置の頂上あたりに墜落した。二つの変態エネルギーが一瞬だけ絡まり、爆裂する。  轟音とともに——装置は崩壊した。 「ひょえええええええええ——!?」  破壊の衝撃波で、塔のそばにいた柊さんが前のめりに倒れる。  その上に、破壊された装置の残骸が降ってきた。 「あ……」  柊さんの顔が恐怖に歪む。  装置の残骸が柊さんの小さな体を押しつぶそうとした寸前。  俺は突進するような勢いで柊さんの体を抱きかかえ、その場からダイブした。 「さ、砂戸くん!?」  柊さんが驚きの声を上げる。 「ふう……なんとか間に合った」  俺はホッと安堵の息をつく。  柊さんは呆然としながら、 「さ、砂戸くん……いまの力は……?」 「ああ、あれは……」  俺は遠くを見つめるようにして、 「変態たちが、俺に力を貸してくれたんだ」 「ほへ?」 「機械で強引にみんなを変態にしても、それは違う。そんな世界は歪んでいる。生粋の変態たちはみんなそう思っていた。だから……俺に力を貸してくれたんだ……」  つぶやき、空を見上げる。  みんな……俺はやり遂げたよ……  柊さんはよくわからないという顔をしていた。天才少女にもわからないことがあるのかと、俺は少しおかしくなった。 「そんなことより……柊さん、怪我はないか?」 「へ? あ……は、はい、大丈夫——」  そこまで言って、柊さんはハッと息を呑んだ。 「さ、砂戸くん! 頭から血が……」 「え?」  俺は右手で額に触れる。指には確かに血が付いていた。  流れ出る血液がこめかみを伝っていく感触。なにかの破片で切ったのだろうか。が、そんなに痛みもないし大した傷ではないだろう。  だが、柊さんは—— 「た、たたた、大変です! き、きき、救急車を呼ばないと……」  とてもおろおろした様子で俺を見つめていた。なんだか泣きそうになってしまっている。 「…………」  さっきまでは全世界の人間を変態にするとか言ってたのに、いまは、たった一人の人間が傷つく姿を目にしてとても慌てている。俺はなんか表情から力が抜けた。自然と笑みがこぼれる。  なんだ……  この子は、当たり前に人を心配できる—— 「普通の、女の子じゃないか……」  言って、俺は柊さんの頭をくしゃっと撫でた。 「え……?」  柊さんはつぶやくと、両目を大きく見開き、呼吸が止まったように硬直した。 「あ——ご、ごめん!」  俺は慌てて右手を引っ込める。柊さんの容姿があまりに幼く見えるせいか、ついつい小さな子供に接するような感じで頭を撫でたりしてしまった。そう、すっかり忘れてしまいそうになるが、柊さんは俺よりも年上であるのだ。 「ほ、本当にすみません! つい……」 「…………」  柊さんは、なんかぽけーっとした顔で俺を見上げていた。よく見ると、少しだけ顔が赤くなっている。  そして、急に自分の胸を両手で押さえ、 「は、はう……!? な、なんですかこれはっ!?」 「柊さん?」 「こ、この胸の痛み……ま、ま、まさか……」  柊さんはますます顔を赤くしながら、潤んだような瞳で俺を見つめる。 「まさか……ノアは、砂戸くんのことを……」 「……?」  よくわからない反応だったので、俺は首をかしげた。 「そんな……天才であるノアが、こんなドMの変態に……そ、そんなことあり得ないですううっ! 絶対にあり得ないですうううぅ!」  柊さんはなぜか泣き叫ぶと、俺の腕の中から逃げていった。屋上の扉に向かう。 「やれやれ……」  俺はその背中を見送りながら苦笑する。ほんと、わけのわからない天才少女だ。 「……ブタロウ」  囁くように言ったのは、石動先輩だった。  俺は明るい顔を先輩に向け、 「先輩、ありがとうございました! 先輩が来てくれたおかげで、世界は救われたんです。先輩は救世主ですよ!」 「もうなにもかもまったく意味不明なんだけど……一つだけ、はっきりしてることがあるわ……」 「先輩?」  どうしたのだろう、先輩はとても怖い顔をしていた。 「あたしをブスと言って、貧乳と言って、メスブタと言ったあんたに……マキシマムなおしおきをしなければならないということよ……」  怒りが、大気を歪ませていた。  俺は後ずさりながら、 「い、いや、あの……あれは、しょうがなかったというか……」 「あと、ツルペタとも言いやがったわね……」 「せ、せせせ先輩! ちょっと——」 「これから一週間、地獄の鬼も泣き出すようなおしおきをしてやるわ……覚悟しなさいよ、ブタ……」  言って、石動先輩はにっこりと笑みを浮かべた。  こんなに怖い笑顔を見たのは……生まれてはじめてだった。  後日。いつものメンバーが集まった部室で、 「この野ブタが! おまえを加虐的にプロデュースしてやろうか!?」 「あ、あひぃぃ!」  俺が先輩に地獄の鬼も泣き出すようなおしおきを受けていると——  突然、轟音とともに部室の扉が粉砕した。 「——っ!?」  皆、唖然としながら扉のほうに顔を向ける。  扉を粉々に粉砕したもの……それは、変な機械だった。  冷蔵庫に手足っぽいものをくっつけたような機械。それが部室の扉に激突し、扉は破壊されてしまったらしい。  呆然としながらその機械を見つめていると、その機械の本体部分が開いた。  その中には—— 「ひ、柊さん!?」  小学生みたいな外見の少女、柊ノアさんが入っていた。  柊さんは機械から降りると、とてとて俺のほうに駆け寄ってくる。  そして、顔を真っ赤にしながら、 「こ、これ……砂戸くんにプレゼントするです」  両手で持っていた花束を手渡してきた。 「プ、プレゼント?」 「はい。砂戸くんに受け取って欲しいのです」 「は、はあ……どうもありがとう……」  呆気にとられたまま言うと、 「……えへへ」  柊さんは顔を赤くしたまま、とても幸せそうな笑顔を浮かべた。  彼女はすぐに踵を返すと、再び機械に乗り込み、部室を去っていった。 「…………」  俺たちは声を出すこともできず、去っていく機械の姿を見送っていた。  わ、わけがわからない。なんで俺に花を渡しに来たんだ? しかも、なんでわざわざあんな仰々しい機械に乗って? 「その花……」  ぽつりと言ったのは、結野だった。 「ライラックだね」 「ライラック……そういう名前の花なのか?」 「うん」  うなずくと、結野は俺を見上げ、 「タロー。ライラックの花言葉って知ってる?」 「え? いや、知らないけど……」 「ライラックの花言葉は——初恋よ」  と、結野はなぜか不機嫌そうに言った。そして、機械が去っていったほうを見つめる。 「へ、へえ、そうなのか……」  俺はそれだけしか言えなかった。なんか、いろいろと意味不明すぎてなにも考えることができなかったのだ。  でも——  ライラック……この薄紫色の花からは、なんだかいい香りがした。 第四話 うれし恥ずかし拉致温泉! 「あの子よ! あそこにいる金髪の男の子!」  わたし——花片未依《はなひらみい》は、ヘリのパイロットに向かって言った。  ヘリが、下駄箱を出てきたばかりの金髪の男の子、葉山辰吉くんに近づいていく。ヘリがいきなり急降下してきて、近くにいた生徒たちはびっくりしてるみたい。ごめんね。  ヘリの扉が横に開いて、そこからわたしのSPが二人、素早く地面に下りた。そして間抜けな顔をしている葉山くんの腕をがしっと掴んだ。 「ちょ——な、なにすんだよっ!?」  葉山くんはじたばたしながら、SPに向かって怒鳴っている。 「お、おまえらはいった——げぶっ!」  暴れる葉山くんの首筋に、SPが手刀をたたみ込む。葉山くんは綺麗に気絶。ぐったりした葉山くんの体をヘリの中に収納する。 「オッケー。じゃあ、出発っ!」  そして、ヘリは再び空へと舞い上がった。 「は、は、ははは、花片先輩!」  目を覚ました葉山くんが、わたしに向かって叫んだ。 「い、い、いったいなんのマネっすか! いきなりヘリで学校に降りてきて拉致するなんて……こ、これは犯罪ですよ!」 「そんなに怒らないでよぉ、葉山くん。わたしは当然の権利を行使しただけなんだから」 「はあ!?」  わたしは胸の前で両指を重ね、にこにこしながら、 「——桜守祭のミスコンで優勝した特典よ。温泉旅行に、誰でも好きな人を連れていけるっていうアレ」 「ミスコン? 温泉旅行?」 「うん、そうっ」 「は、花片先輩、ミスコンで優勝したんですか!? あ、あれ? でも……」  葉山くんはなにやら考え込んでいるような顔をしている。 「ほんとはミスコンなんて庶民の催しに出るつもりはなかったんだけど……」  わたしは、桜守祭のことを思い出しながら言った。  ミスコンで再会した、憧れのお姉さまのことを思い出しながら。 「わたしの憧れてる人が、桜守祭のミスコンに出てたの。わたし、すごく興奮しちゃって、ステージの上に乱入しちゃったのよね。そしたらその人、すごい勢いで逃げ出しちゃって……必死で追いかけたんだけど、結局掴まえられなかった……」 「へ、へえ、そんなことがあったんすか……」  葉山くんはなぜか頬に汗を流していた。 「でもね——ミスコンに出てたってことは、お姉さまは桜守の生徒ってことなのよ。それに気づいたとき、わたしの頭の中に素晴らしいアイデアが閃いたわ! なんとゆーか、プライスレスなアイデアが! で、わたしはミスコンに途中参加することにしたの」 「話のつながりがまったく見えないのですが……」 「ミスコンで優勝すれば日帰りの温泉旅行がプレゼントされて、さらに特典としてその旅行に桜守の生徒なら誰でも誘っていいっていう権利が与えられる。その権利を使って憧れのお姉さまと一緒に温泉旅行に行こうと思ったの」 「ああ、なるほど……そういう理由で……」  葉山くんはちょっと呆れたような顔で言う。 「でも、ミスコンって途中参加とかしてもいいんでしたっけ」 「葉山くん。お金の力に不可能はないわ」 「な——せ、先輩! もしかしてお金の力で途中参加を認めさせたんすか!?」 「イエスです」 「せ、先輩! 何度も何度も言ってるじゃないすか! なんでもお金で解決しようとするのはよくないって!」 「まあまあ、かたいこと言わないでよ」 「まったく……」  葉山くんは額を押さえる。それから、ハッとした顔になって、 「ま、まさか! 先輩、ミスコンに優勝したのもお金の力で——」 「違う違う。そこまではしないわよ」  わたしは笑いながら言った。葉山くんは安堵の息を吐く。 「ただ、自己アピールをしてくれって言われたときに、観客席に向かって一万円札をばらまいただけ。合計で一千万円ぐらいだったかな?」 「お、思いっきりお金の力じゃないすか!?」 「違うわよ。自己アピールで特技を披露しただけだもん。わたしの特技は、お金持ちだってことだから」 「それは特技とは言わないっす……」  葉山くんは疲れた顔でため息をついた。 「でも……せっかく優勝したのに、お姉さまを旅行に誘うことはできなかったの」  どんなに学校内を探しても、お姉さまを見つけることはできなかったのだ。 「ほんと、すごく残念……楽しみにしてたのに……」  わたしはぽつりと言った。そして、葉山くんを見つめ、 「で、その憧れのお姉さまの代わりに、葉山くんを誘うことにしたの。しょうがなく」 「しょうがなく……」 「うん」  わたしは笑顔で、言った。 「そーゆーわけだから、一緒に温泉旅行に行きましょうよ、葉山くん。きっと、プライスレスなくらいに楽しいわよっ」  ヘリが、自然に囲まれた温泉旅館の前に着陸する。  わたしと葉山くんはヘリから降りた。  ヘリの中でぶつぶつ文句を言っていた葉山くんだったが、結局、わたしの強引な誘いに応じてくれたようだった。かなり嫌々みたいだったけど。  わたしは、わりと豪華な感じの温泉旅館を見上げながら、 「ミスコン優勝賞品の温泉旅行で泊まる旅館がなんか庶民っぽくてしょぼかったから、こっちの旅館に変更したの」 「は、はあ……」 「この旅館は花片コンツェルンが買い取ったの。だから、警護の人たち以外はわたしたちしかいないから、のんびりできるわよ」 「か、買い取った!?」 「うん、この旅行のために」  葉山くんは唖然とした顔をしていた。  どうしたのだろう、こんなこと大したことじゃないのに。 「じゃあ、葉山くん! さっそく温泉に入ろうよ!」 「あ……は、はあ……」  わたしは葉山くんの背中を押し、旅館の中に入っていった。  男女に分かれた脱衣所に入る。わたしはそこで裸になり、体にバスタオルを巻いた。そして温泉への扉を開ける。  視界をふさぐ湯煙をかき分けながら、前に進んだ。  温泉には——すでに葉山くんがいた。 「やっほー、葉山くん」 「え……げぶっ!? は、花片先輩!?」  油断しきった表情で湯船につかっていた葉山くんは、顔を赤くしながら叫んだ。 「な、なんで花片先輩がここにいるんすか!? ここは男湯——」 「あ、ここは混浴なのよ」 「な——」 「脱衣所は男女に分かれてるけど、扉を開けたら一緒の温泉に出るの。とゆーことで、仲良く温泉につかろうよ」  言いながら、わたしは温泉に足を入れる。体をつからせると、わたしの大きな胸が湯船に浮かんだ。ゆっくりと葉山くんのほうに近づいていく。 「ちょ……先輩! 近づいてこないでくださいっ!」 「えー、なんでよぉ」  わたしは頬をふくらませる。 「せっかくの混浴なんだから、一緒にお湯につかりながらお喋りしたいじゃない」  構わず葉山くんに近寄る。葉山くんはわたしの胸のあたりを凝視しながら、悲鳴のような声を漏らした。そして—— 「——だ——だ、だだだ、ダメだああぁああぁ!」  葉山くんは叫びながら立ち上がると、タオルで大事なところを隠しながら逃げ去っていった。扉を開け、温泉から立ち去る。  わたしはぽかんとしながら扉のほうを見つめていた。 「……もう。葉山くんったら、照れ屋さんなんだから」  混浴ぐらいであんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。……もしかして、その、アレ的なものがちょっと粗末なのかしら。だから誰かと一緒にお風呂に入りたくないとか。 「そんな残念なコンプレックスを抱えていたなんて……今度、お金の力で立派にしてあげよう……」  わたしは固く心に誓った。  温泉で充分あったまったあと、わたしは湯船を出て脱衣所に戻った。 「ん……」  脱衣所の真ん中に置いてある大きな椅子。それがわたしの注意を引いた。 「これは……確か、庶民が使うマッサージチェアというやつね」  つぶやいたあと、首をかしげる。 「でも、おかしいわね。さっき脱衣所に入ったときは、こんなド真ん中には置いてなかったと思うんだけど……」  さあ座ってくださいと言わんばかりの配置だった。 「まあいっか。せっかくだから、庶民の文化を体感してみましょう」  わたしはマッサージチェアに腰を下ろした。背中を深くあずける。  そして、マッサージがはじまる。 「ん……」  あ、なんかちょっと気持ちいいかも…… 「んん……はっ、く……」  いや、ちょっとどころじゃなくて—— 「な、なにこれ……はう……っ!」  あまりにも気持ちよすぎる……はあうううう……  やがて—— 「ふぎゅううっ!?」  マッサージは、わたしの胸に及んだ。執拗にわたしの胸を責め立てる。 「うああ……こ、ここ、この気持ちよさはプライスレス……」  胸へのマッサージは終わらない。まだ終わらない。  わたしは身をよじらせながら、思わず閉じていた瞼を開けた。と—— 「へ……?」  わたしの胸をマッサージしていたのは——人間の手だった。 「え、ええええええ——っ!?」  わたしは慌てて立ち上がり、マッサージチェアから距離を取った。 「な、なんなの!? あのマッサージチェアはなんなの!?」  わたしは恐怖に震えながらマッサージチェアを見つめる。マッサージチェアの背もたれには二つ裂け目ができており、そこから人間の腕が飛び出していた。わりとホラーな光景だった。 「しょ、庶民のマッサージチェアの中には人間が入ってるの!? び、びっくりプライスレスだわ……」  驚くわたしの目の前で、マッサージチェアが大きく裂けた。 「——っ!?」  マッサージチェアの中からのっそり出てきた人間の姿には——見覚えがあった。  しなやかな肢体に、ツインテールの長い髪。意志の強そうな瞳。 「ま……間宮さん!?」  彼女は、わたしと葉山くんと同じ料理部に所属している間宮由美さんだった。 「え……ど、どういうこと……?」  間宮さんは、完全にわたしを睨みつけていた。口を開く。 「校舎の窓から、ヘリコプターが飛び立っていくのが見えたの」 「え……?」 「そのヘリには、花片さん、あなたが乗っているのが見えた。そして……辰吉くんも。だからわたしは、急いで屋上まで駆け上がってフェンスによじ登って、そこからヘリに飛びついたのよ」 「へ、ヘリに飛びついたって……」 「ヘリにしがみついてたんだけど、手が痺れてどうしようもなくなって、わたしはヘリから落ちてしまったのよ。運良く下がちょうど森で、木の枝や葉っぱがクッションになってくれたおかげでたすかったんだけどね。それからわたしはヘリが飛んでいった方向に進んでいって……この旅館を見つけたのよ……」 「な、なんて行動力……でも、どうしてマッサージチェアの中に……?」 「森に落ちたとき、ちょっと足をくじいてしまったのよ。なんとかここまで歩いてきたけど、いまも痛くてしょうがないわ。こんな状態だから、普通に襲いかかって逃げられたりしたら厄介だと思った。だからマッサージチェアになりすまして、あなたのほうから罠にかかってくれるのを待っていたというわけ。とりあえずマッサージで腑抜け状態にして辰吉くんの居場所を吐かせようと思ってたんだけど……不覚にも、あなたの胸を揉むことに夢中になってしまったわ……」  言ったあと、間宮さんは鬼気迫るような表情で、一歩わたしに近づいてくる。 「花片未依さん。あなたには、前々からちょっとイライラしていたのよ……わたしの辰吉くんになんだか馴れ馴れしくて……」  間宮さんが葉山くんに片思いしていることは、料理部の部員なら誰でも知っていることだった。料理部の部室でいつも熱烈アピールをしているからだ。 「な、馴れ馴れしいって、わたしはべつに……」 「わたしの辰吉くんを拉致して、その無意味に大きなオッパイで辰吉くんをエロティックに洗脳しようとしてたんでしょう……? ほんと、卑怯な奴だわ」  間宮さんは両指をゴキゴキ鳴らしながら、 「とりあえず……わたしのマッサージで廃人にしてあげるわ。そのあと、ゆっくりと辰吉くんを探すことにしましょう……」  やばい! このままでは殺される!  間宮さんは足をくじいているらしいけど、それでも運動音痴のわたしよりは素早く動くことができる——わたしはそれを本能的に悟っていた。 「こ、こうなったら——」  わたしは、自分の胸の谷間に手を入れた。  そこから取り出したのは、巻物のようにぎゅっと巻かれた三十万円の札束が二つ。常に札束を身につけておくのは金持ちのたしなみだった。完全に胸の中に密閉していたから、温泉につかってもまったく濡れていない。 「セレブ忍法——諭吉乱舞の術!」  叫ぶと、脱衣所にお札をまき散らした。  空間を舞う無数の一万円札。これを見た庶民の間宮さんはきっと一万円札を拾うことに夢中になるに違いない。その隙に逃げるつもりだった。だが。 「……なにこれ? わたしを馬鹿にしてるの?」  間宮さんは、まったくお札に惑わされていないようだった。 「そ、そんな……」 「さて……マッサージをやっちゃいましょうか……」  間宮さんはぎらりと瞳を輝かせると、わたしのほうに向かってきて 「四十八の超絶マッサージ術の一つ——モミモミの銃《ピストル》——っ!」  間宮さんの右手が、超速でわたしに襲いかかってくる。  避けることなどできるわけがない。わたしは恐ろしさのあまり、目を閉じた。  と、そのとき——  わたしの体をふわりとした浮遊感が包み込んだ。 「え……?」  それは、どこか懐かしい感覚だった。わたしは瞼を開けた。  わたしをお姫さまだっこしているのは、綺麗な黒髪を長く伸ばした美少女。  わたしをだっこしながら間宮さんのマッサージを避けたその美少女は、苦笑しながら、 「あなた、またお金に頼って窮地を脱しようとしましたわね? 前にあれほど言いましたのに……しょうのない人ですわ」 「お、おお、お姉さま……!」  そう、その人は——わたしの憧れのお姉さまだった。 「ど、どうしてここに……」  いや——そんなことはどうでもいい。  お姉さまは、またわたしをたすけに来てくれた。お金で雇ったわけでもないのに、わたしのところに来てくれた。それは、本当にうれしいことだと思った。本当に本当に、うれしいことだと思った。どれほどの大金を手に入れることよりも、うれしいことだと思った。 「あ、あなたは……夏祭りのときに会った、美少女……」  間宮さんがつぶやくように言う。それから、わたしを抱えたまま脱衣所の出口に向かうお姉さまに向かって、 「ま、待ちなさいっ! まだマッサージを——」 「オーホッホッホッホッ! 貴族であるわたくしが凡俗の徒であるあなたごときの命令に従うわけありませんわ! では、ごきげんよう!」  お姉さまは、わたしを抱えたまま矢のように疾走する。間宮さんを振り切る。 「……お姉さま」  わたしはお姉さまにぎゅっとしがみついた。 「なんですの? お礼の小切手ならいらないですわよ?」  わたしは首を横に振った。小切手なんかで、お金なんかで、いまのこの気持ちを代弁することなどできるわけがない。  だから、一言を。  お金でも宝石でもなく、万感の想いを込めた一言を—— 「——ありがとう」  お姉さまの胸に抱かれているという安心感か、それとも間宮さんのマッサージの影響か、急激な眠気がわたしの瞼を重くした。わたしはプライスレスな気持ちに包まれながら、ゆっくりと瞼を下ろした。  眠気が意識を覆う寸前——お姉さまがうれしそうにほほ笑んだような気がした…… あとがき  どうも、松野秋鳴です。開始数ページで主人公がハァハァ興奮しながら四つん這いになるような小説を書いている者です。  えむえむっ!も五巻まできちゃいました。五巻は語感がいい! うん、僕なんて死ねばいいですね!  しかも、ついにマンガにもなっちゃうらしいのですよ! 来月からコミックアライブ様で連載が開始されるようなのです! ……でも、それは本当の話なのでしょうか。僕はまだ完全には信じておりません。きっと、みんなで僕を騙すつもりなのです。うれしさのあまり我を失うほど舞い上がっている僕をあざ笑うつもりなのです。  いや、あざ笑うどころか激しく罵倒するつもりに決まってます。「TSUT○YAで借りたCDのパッケージの中に間違えてエロゲーを入れたまま返却しちゃったりするゴミ野郎の小説がマンガになどなるわけないだろうが! てめえそれはレンタルショップを利用した特殊なプレイか!? ああん!?」とか言いながら鞭で叩いたりしてくるはずなのです。ち、ちち、ちくしょう! だ、騙されないぞ! どうせ『コミック化……したい』みたいなオチなんだろうが!  でも、本当にコミック化したりしたら、死ぬほどうれしいです! そしてコミック化に尽力してくださった方々と読者さまに死ぬほど感謝です!  レッツ、謝辞です。  今回もスーパーでハイパーなイラストを描いてくださったQP:flapperの小原トメ太様とさくら小春様、ありがとうございました。愛してます。  担当のS様、編集長のM様、お世話になりすぎています。ありがとうございます。装丁を担当してくださった松井様、校正様、営業の皆様方、いつも感謝の気持ちを胸に抱いております。ありがとうございます。  そして最後はもちろん読者様に! ああ、この感謝の気持ちをいったいどう伝えればいいのか。本当にありがとうございます。  ではでは、次巻でお会いできればうれしいです。 二〇〇八年 六月 松野秋鳴 発行 2008年6月30日 初版第一刷発行 090809